恵みは千代まで

 

Q.

古代神道とユダヤ教の間に何等かの関係があるなどという教えはキリスト教的ではないと思います。

A.

我々は聖書が教えるキリスト教だけが真のキリスト教だと思っているので、もし、聖書から論じる用意がなければ、話しても無駄だと思います。

我々は、神道を肯定するとか、神道の信仰を奨励していると考えないでいただきたい。今日の神道に働いている霊は、キリストを主としない霊なので、悪霊であることは明らかです。

「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(第1ヨハネ42-3

我々は、現在、我々が目にしている神社の信仰を肯定しなさいと述べているのではなく、かつてディアスポラのユダヤ人が日本にやってきて、彼らがシナゴーグ礼拝をしていたことが神道の起源ではないだろうか、という疑問を提示しているのです。

教科書の歴史しか学んだことがなければ、古代のユダヤ人が日本にやってきたなどという話しは荒唐無稽に思えるでしょう。しかし、様々な情報源を調べると、彼らが日本に来ていたと結論することはそれほど困難なことではないのです。

かつて早稲田大学で教鞭を取っていたユダヤ教教師、マーヴィン・トケイヤー氏は、このように述べています。

「ユダヤ人が紀元前のはるか昔から大旅行者兼商人であったことは、前の本でも述べたが、その中心舞台となったのはシルクロードである。なぜかといえば、この道を旅した絹の商人は、すべてユダヤ人だったからである。ユダヤ人がまだバビロニア地方に住んでいた紀元前の時代に、ユダヤ人たちはシルクロードの開拓者としてシナから絹を運び、織物として加工し、それを染色した特殊技術者でもあったのだ。シルクロードは、シナから中近東を経て、ヨーロッパへ絹を運ぶ古代のハイウェイであったということもできる。古代においては、そのハイウェイを往来するのは、完全にユダヤ商人によって独占されていた。」(『ユダヤと日本謎の古代史』産業能率大学刊、3-4ページ)

そして、彼の先祖は、シルクロードに存在したユダヤ人居住区において奉仕する巡回伝道者であったというのです。

「そこで古代ユダヤ民族の行ったことは、教師やメッセンジャーをアジアの中央にあるユダヤ人居住区へ送り、ほぼ一年か二年滞在させたのち、ヨーロッパへ呼び戻すという方法であった。私の母の語ってくれた私の祖先たちのあるものは、おそらくこうした遠隔地に居住するユダヤ人集団に対するサービスとして、その居住区へ短期間滞在する教師の一人であったらしい。サービスを終えたのち、絹の道の都市ブハラにある家庭に帰って来たのであった。」(6ページ)

つまり、シルクロードを通じてディアスポラのユダヤ人たちは互いに連絡を取り合い、共通の信仰を保っていたということです。紀元前においてこのようなユダヤ人社会がシルクロードを中心に世界に広がっていたということは、シルクロードの終点である日本にも彼らがやってきて、信仰の共同体を作っていたと類推することを容易にします。

また、ソロモンの時代に、ユダヤ人は海のルートを使ってインドまで来ていたことが記録から明らかであり、その他にも、アルゼンチンにおいて古代ユダヤ教の祭具であるメノラーが発見された(1975年)ことや、アメリカのケンタッキー州で発掘された石の彫刻に古代ヘブライ文字が記されていたことなどから、ユダヤ人は広く古代世界を旅行していたことが明らかになっているのですから、古代日本にユダヤ人が到来したと考えることがそれほど荒唐無稽のことであるとは言えないのは明らかです。

さて、実際に、日本とユダヤの間には奇妙な類似性があるとトケイヤー氏は述べています。この類似性にはじめに気づいたのは、近代になって開国した日本にやってきた外国人たちでした。

「日本が開国に決定し、東京や横浜にドイツ人、フランス人、イギリス人などが訪れたとき、これらの外国人たちが一様に感じたことは、日本人のもっている一種独特の文化と、日本人の特徴ある行動様式についてであった。それは、シナの、または朝鮮の文化とも全く異質なもののように思われた。そこで、これらの外国人達が考えたことは、遠い昔に失われたユダヤ人たちが、この島国に住みついていたのかもしれないということであった。」(11ページ)

とくに、明治維新の初期に横浜に来日したマックレオドというスコットランド商人は、『日本古代史の縮図』という本の中で、「二千五百年の昔に、ユダヤ人の十二種族のうちの大部分である十種族が、東方世界に追放されたという聖書の記述に従って、もしこれらの古代ユダヤ人が日本に住みついたとすれば、日本で行われている説明のつかないさまざまの行動様式や祭式のあり方などが、よく理解できるということを述べ」(11ページ)ました。

例えば、彼は祇園祭りがユダヤの祭礼スコット(仮庵祭)とそっくりであることを指摘しています。

「彼は京都をも訪れた。そして祇園祭を見たとき、非常に深い印象を受けた。たとえばその祇園祭で、人々は木の枝を持って歩いていた。これは竹や柳の枝を含むものであった。これはユダヤの祭礼スコット(SUKKOT)のときの風習と非常に類似したものであった。そのスコットの祭りでは、ユダヤ人はたくさんの木の枝を持ち、また、農業の収穫物を持ってその行列に参加する風習があった。これは秋に行われるユダヤの収穫の祭りである。実際、ユダヤの祭礼においても、柳の枝やさまざまの、日本の榊のようなものが用いられていることも事実である。このようなユダヤの祭りの風俗と全く同じような行事が、祇園祭りにおいても見られた。また、祇園祭りで使われる香炉も、古代ユダヤの神殿で用いられた香炉と同じものであるということを観察した。」(19ページ)

彼の著書は、西欧社会の読者からは拒絶されたが、ユダヤ人は、それを真剣に受けとめたと言います。

「当時のユダヤ人学者によって、このマックレオドの本(著者は非ユダヤ人であった)は徹底的に検討され、学問的にも分析されたのであった。当時のユダヤ人学者たちの研究によって、この説は肯定も否定もされなかったが、一つの貴重な研究資料として将来のより詳細な学問的研究に待つという目的にしたがって、百科辞典に採録された。…英文の『ユダヤ百科辞典』における失われたユダヤの十種族の項目は、すべて日本人とユダヤ人の関係についての記述で満たされている。」(13ページ)

氏自身も、この他にも多くの類似点があると著書の中で指摘しています。例えば、塩が汚れを清めるとするのは日猶両民族に共通する発想であるといいます。

「古代ユダヤの神殿において、また、砂漠の中に建てられた移動性の神殿である天幕の中に、もしもユダヤ人たちが何か神への贈りものを持ってくるときは、必ず塩を添えてくるのが律法に定められた規則である。神にささげる動物の犠牲は、必ず塩付けにしておく必要があった。古代ユダヤの神殿の中の一つの部屋は、必ず塩で満たされていた。…旧約聖書の『民数記』の中に、次のような記録が認められる。十九章二十九節に、”塩の契約”ということが述べられている。そこには汚れを清めるためのさまざまな律法のおきてが述べられている。これらが俗に”塩の契約”と呼ばれているものなのだ。ヨルダン川の水が汚れたときは、それを清浄にしなけえばならない。そのために塩が川に投げ込まれる。そのために用いられた塩は、神殿に作られた特別の塩の部屋から持ってきたものなのだ。

…多くの外国人たちが日本へ旅行にやってきて、羽田空港に降り立つ。そして、日本の国技である相撲を見に行ったとしよう。その時、キリスト教徒たちは羽田に着いた時から全く混乱した違和感を抱いているだろうが、ユダヤ人の旅行者に限っては、何か家に戻ってきたような親近感があり、国技館で見る相撲の力士が行う塩を土俵にまく動作にも奇妙さを感じない。ユダヤ人であれば、その意味は即座に理解できるからである。ユダヤ人の家庭では、母親が同じようなことをして家の中を清めていたからである。ユダヤ人の家庭ではコーシャと呼ばれる清浄を保った食事が行われるので、常に大量の塩が保存されている。だから、何か汚れたものがあれば、ユダヤ人の婦人は必ず塩を用いてそれを清める習慣がある。ユダヤ人は相撲の力士たちを見たことはないが、取り組みの前に塩をまいて土俵を清めるという考え方そのものは、ユダヤ人にとっては決して異質なものではない。」(30-32ページ)

また入浴の習慣について次のように述べています。

「ユダヤ人の旅行者が日本の公衆浴場へ行ったとする。そうすれば、そのユダヤ人は日本人が浴槽に入る前に、流しで身体を洗っているのを見て、全く自分たちの習慣と同じだということを発見して気持ちがリラックスする。ヨーロッパの社会においては、ユダヤ人を除いてだれもこのような習慣を持っていないからである。入浴の習慣は、ただ単に身体を洗うということではなくて、身を清めるという精神的な意味を持っていることが理解できるからである。」(32ページ)

その他、神社と幕屋や神殿との類似点についてなど日本文化とユダヤ文化が同根であることを暗示する興味深い記述があります。

氏によると、アブラハム・ゾンシャインというユダヤ人は、1964年にテルアビブにおいて出版した『失われた十の種族』という本の中で日本について興味深いエピソードを語っていますが、中でも次の話しは非常に興味深いものです。

「イエルサレムの有名なラビ・メナヘム・モーリバは、旧満州国のハルピンに居住していたユダヤ教のラビ・キシレフから次のような極めて不思議な、そして極めて信憑性の高い話を聞いたことがあった。

それは日本軍部が満州地方(現在の中国の東北地方)を占領した直後の頃であった。ある日、ハルピンにあったユダヤ教の教会堂(シナゴーグ)に立派な服装をした三人の日本人がやってきた。そして、その中の一人が言うには、これからの私の個人的な話は極めて高度な秘密によって守らなければならないから、ラビ・キシレフと二人だけで話しあいたいということであった。そこで二人の日本人は帰り、あとにはラビとこの日本人の二人だけが残った。

まず、その日本人はこれからの話はあなたが生きている間には絶対に他人に話さないという約束を守ってくれ――と言うことであったので、ラビ・キシレフはその約束を守ることを誓った。

これからの話はこのラビ・キシレフが死ぬ直前に、その臨終の床で当時、最も高名であったラビ・メナヘム・モーリバに告白した内容にもとずくものなのだ。こうした約束を交わしたあとでその日本人は自分自身の身分を明かした。彼は日本の皇族の一人であった。

彼が子供の頃、宮城に時々訪れてくる外国人商人がいたそうである。この外人は高い教育を受け、いろいろな知識をもっていたので、このユダヤ商人と彼はいろいろな問題について話しあうようになった。

二人が非常に親しくなったあとで、この日本の皇族は、子供のころから皇族の間でうわさされている天皇家の祖先はユダヤ人であるかもしれないといううわさを話した。

このようなことから、この皇族は、ユダヤ人の歴史とその宗教について深く勉強しようと思ったのだそうである。そして、彼はついに個人的にはユダヤ人として生活し、公的には日本の皇族としてふるまおうと考えるようになった。

この皇族が結婚するようになった時、彼は自分の妻にもユダヤ文化の教育をしようと思ったが、その際当時の日本には、ユダヤ教のラビが一人もいなかったので、満州のハルピンにあったユダヤ人の教会堂にまではるばるやってきたというのであった。そこで、ラビ・キシレフは、皇族の妻の教育のために彼自身の一人娘を日本に派遣した、という。」(236-238ページ)

結局、日猶問題は、学問的な研究が進んでいないので、状況証拠で判断する以外にはないのですが、しかし、ユダヤ人自身がこのように日本に対して大変な関心を寄せているということを考え合わせるならば、私は、この問題はけっしてないがしろにすべきものではないと考えます。

ユダヤ人は、失われた十部族について同族についての関心から調べているのでしょうが、我々クリスチャンは、救済史の観点から重視しているのです。

それは、ユダヤ人がイエスを約束のメシアと認める時代が必ずやってきて、その時、彼らは完全に回復するという預言があるからです(ローマ11章)。

もちろん、ユダヤ人はイスラエルに住むユダヤ人だけではありません。ディアスポラとして消滅した十部族のユダヤ人も回復しなければならないからです。

「恵みは千代まで」と言われているように、主は、先祖の信仰を覚えておられ、けっして子孫をないがしろにされないで、復活の恵みにあずからせてくださるという信仰を持っているならば、当然、離散したユダヤ人の回復についても関心を寄せるはずです。

tomi <kbzwezlcwe> 2001/12/20

 

 

02/03/29

 

 

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