神の恵みを無視してはならない

 

<ご質問>

なぜ、神は人を創造されるのですか?

救われない人間がどうして産まれてくるのでしょうか?

神さまを知らずに(福音が述べ伝えられる前に産まれた人等)死んでしまって地獄で焼かれてしまう人間に、生きる意味があるのでしょうか?

その人たちが、何か悪い事でもしたのでしょうか。

原罪だけでは片付けることの出来ない問題だと思います。

 

<お答え>

人間は、神の栄光のために生まれました。

救われる人も、救われない人も、すべて神の目的のために生まれてきました。

神は、悪を行わない人を滅ぼすことはなさりません。

しかし、人間は少なからず悪を行う者です。自分が地獄に値する罪を犯したと感じたことのない人はいないでしょう。

もしいるとすれば、よほど鈍感な人でしょう。

鈍感な人は、鈍感だからそのように感じるというよりも、堕落の度合いがひどいために罪意識がマヒしている人です。まともな人であれば、罪を犯したり、他人に迷惑をかけ、不幸にしたことを悔いて悩むはずです。

この世の誰一人として神の前に堂々と出られる人はありません。

例えば、この世で一番大きな罪とは、キリストを受け入れないという罪です。

なぜならば、神はそのひとり子を人間の罪のために身代わりに処刑されたからです。相手のために自分の子どもを殺したにもかかわらず、その相手がそれに対して感謝しなければどうでしょうか。

このような忘恩はけっして赦されるものではありません。

神の愛に対するこのような不義理を行う人が赦されるべきだとはけっして言えません。

だから、キリストを信じない罪に対して言い訳はいっさいできないのです。自分が救われる道があるにもかかわらず、それを受け入れなかったならば、どこに救いの機会があるでしょうか。

「いやいや、神様。わたしは、ずいぶんと良いことをしてきましたよ。まじめに会社も勤めあげたし、遅刻欠勤もなくそれといって人の道に反したこともせず、平凡な人生を送りましたよ。」と言っても、神が自分の子どもを犠牲にしたことを無視し、感謝もしなかったならば、どうでしょうか。

「いや、救いのチャンスがある人のことを言っているのではありません。救いが伝わる前に死んだ人についていっているのです。」と言われるかもしれません。

しかし、神は、人間の前に常に「神が存在すること。神が自分に恵みを与えてくださっていること」を啓示しておられます。人間は、素直になって世界を見れば、自分の人生が様々な恵みを与えられていることに気づくはずです。自分の奥さん、子ども、家族、友人、仕事など、全部自分が自力で作り出したものでしょうか。そこに不思議な巡り合わせはありませんでしたか?素晴らしい友人が与えられているのは、偶然だとでも言いますか?もしそう言うならば、それは、あまりにも恵みに慣れてしまっているのです。家族も愛する人も仕事もすべて失わなければ分からないほど鈍感になっているからです。

私たちが毎日食べる野菜や御米、果物を見てください。神の恵みに溢れているではありませんか。これらのものは、偶然に我々の目の前にあると思いますか?魚にしても、サンマとサバとシャケでは、味が違う。もしサンマしかなかったら、あまりにも単調ではないですか。果物もミカンしかなかったら、すぐに飽きてしまいます。

そして、これらは、私たちの味覚にあうように素晴らしい微妙な味わいがあり、微妙な違いがあります。これらは偶然でしょうか?

草花や木々を見てください。それぞれ違いがあって、私たちの目を楽しませてくれる。そして、この世に木がなければ、どうでしょうか。木は酸素を作り出し、我々に空気を提供してくれます。空気がなかったらどうでしょうか。木々の緑は、私たちの目にちょうどよい色です。画像を処理したことのある人なら分かるでしょうが、ちょっとの色調の違いがあっても、緑は、人間が毎日それを見るには苦しくなるような色に変わってしまいます。自然の緑はちょうど我々が見るのにふさわしくできているのです。空の色もそうです。下手な画像処理をした空の色がそのまま空の色ならば、私たちは発狂してしまいます。

神に感謝するのはそれほど難しいことではないのです。毎日当たり前だと思っていることを、「まてよ。もし・・・」と考え直してみれば、いかに私たちは恵みの中にいるかということがわかります。

「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ119-21

神の存在、本性、その恵みは被造物を見るときに明らかなのですから、我々は言い訳できないのです。

「いや〜、神がいることなんて分かりませんでした。」などと言う人は、「それは、おまえが私を知ろうとしなかったからではないか。」と言われてしまうのです。

すべての人には言い逃れはできません。素直になって知ろうとすれば、神は自然を通して我々の目前に姿を現してくださるのです。

我々には、(1)神が存在する証拠、(2)神の救いの道、(3)悔い改めのチャンスがあるのですから、救われない人の肩を持つことはできません。

神に文句を言うことは、宝の山に埋もれながら「もっとください」と言っているようなものなのです。

 

 

02/02/11

 

 

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