神の御心はどうやって分かるのか?

 

Q. 神の御心はどうやって分かるのでしょうか。

A. 

御心がどこにあるかは、はっきりしています。それは、聖書に書いてあることです。

聖書の教えに従う人は、御心の中を歩いている人であり、光の中を歩いているためつまづくことはありません。

しかし、具体的な選択をする場合、聖書にかなっているだけでは決まらない場合があります。

聖書に従うという基本は守りながら、しかし、具体的に何かを決断する場合にはプラスアルファがあります。

例えば、ある女性が、誰と結婚すべきか迷っているとします。彼女には候補者が3人います。

一人はノンクリスチャンです。2人はクリスチャンです。

まず、選択の第一条件は、「聖書に従う」ですから、ノンクリスチャンは候補から外れます。聖書は、明確にノンクリスチャンとクリスチャンとの結婚を禁止していますから、これは「倫理的問題」であり、答えは明確です。ノンクリスチャンを選択することは罪であり、この選択肢を外さねばなりません。

さて、残りの2人のクリスチャン男性のうちどちらを選ぶかについては、育ちとか趣味とか、好み、相手の家族との折り合いの問題など「非倫理的問題」になります。(*)

これについては、そのどちらを選んでも罪ではありません(相手の男性が職業犯罪者であるとか革命家であるとか、聖書に平気で逆らうことを行う背信者であるなどの場合を除いて)。どちらも、聖書に従う立派な男性であれば、どちらを選ぶかにおいて「罪」の問題は伴ないません。しかし、性格の問題とか、育ちの違い、人生において自分が目指しているものが互いに違うなど、必ずしも相応しいパートナーとは言えない結婚もあるわけですから、慎重にしなければなりません。

「クリスチャンであるならば、顔の好みとか性格とか関係ないのだ、信仰によって目をつぶって結婚すべきだ。」という人がいますが私はそう思いません。なぜならば、人間には判断力、嗜好、性向が与えられているからです。人間は、動物とは違って、繊細な味覚を感じ取れる舌があり、音楽を楽しむ耳、特定の画家の絵や、特定の風景を愛する目が与えられているのであり、これによって人間は神の豊かなご性質を表しているのですから、禁欲主義者のように、グルメを嫌い、美的感覚を嫌い、自分の嗜好を蔑むようなことをすべきではありません。

人間は最善を尽くして自分の能力を総動員して判断しなければなりません。しかし、人間は完全ではないので、自分が最善を尽くしても、その判断が最もよい結果を生むとは限りません。その場合は、主に結果を委ねるのです。

安息日の規定に現われている「人間の労働6:神への依存1」という法則はここにおいても適用できるのです。人間は最善を尽くしていろいろなデータから判断しますが、最後は神の判断に委ねます。「人事を尽くして天命を待つ」のです。

 

 

(*)

この「非倫理的問題」においては、主に祈りつつ、自分の判断や感覚や他者の意見などを考慮しながら、「論理的に」結論を導き出す必要があります。例えば、自分の大切にするものを相手は大切にしてくれるか、とか、話題が合うか、とか。

育ちがあまりにも違いすぎると、やはり現実的ではないので、育ちが近いほうがよいことが多いでしょう。しかし、これらの基準は絶対ではありません。まったく育ちが違うことによって、配偶者から多くのことを学び、人間の幅を広げることができるなど、利点もあるかもしれないからです。

「御心を求める」という場合に、はっきりと御心だと分かるのは、「聖書に記されている義の規準」だけであって、それ以外については、「祈りつつ人間の側の努力をし、最善を尽くして、後は結果を待つ」以外にはありません。

絶対の基準は聖書だけであって、それ以外には誤りは常に伴なうのですから、どれが御心であるかは、究極的にはわからないのです。

上記の例で言えば、ノンクリスチャンとの結婚は絶対的に間違いであり主の御心ではありません。2人のクリスチャンのどちらを選ぶかについては、自分の好みとか、相性とか、一緒にいて落ち付くとか、いろいろな要素を考慮しつつ決定しますが、それが最善の選択であるかどうかは不明であり、結果を主の善意に委ねる以外にはないのです。

「もし主の御心でなければ、閉ざしてください」と祈りながら、結果を待つ以外に人間にできることはないでしょう。最善を尽くして、結婚に導かれれば、それが神が与えてくださった配偶者だと信じ、いろいろと不都合があれば、それは、主が与えてくださった宿題だと考え、自分を成長させてくださるために与えてくださった神のご配慮だと信じるべきでしょう。

そもそも、人間は完全ではないのですから、どんなに調べても限度があります。しかし、決断しなくては、物事は進みませんから、ある時点で思いきって決断する必要があります。

その場合、決断した結果については主に委ねる以外にはないのです。そこで、結婚に導かれれば、それを主の御心として受け入れる以外にはありません。

 

 

01/11/20

 

 

ホーム 

 



ツイート