近代人の世界観

 

 近代の認識論の基本は、「認識をもっぱら人間から出発する」ということである。

 つまり、「神は聖書においてこう言われた。」と述べても、「へえ〜。ボクはそんなの主観だと思うから信じないね。ボクは自分の目で見て、耳で聞いて、経験で確かめたもの、または、確かめ得るものしか信じないね。」と答えるのが近代人の特徴なのだ。

 しかし、こちらが、「それじゃあ、その『ボクちゃん』が目で見て、耳で聞いて、経験で確かめるということが確実な認識の方法であるという根拠はどこにあるの?」と聞いても、彼らは答えられない。

 なぜならば、「人間の認識から出発するということは、けっしてドグマチズムではなく、普遍的・客観的な真理である。」と断定できる人は誰もいないからである。

 例えば、あるクリスチャンが「天使は存在する。」と述べたとする。

 すると、無神論者が「ボクはそんなもの見たことがないし、また見ることができると考えられないから、ウソだと思う。」と答えた。

 それに対して、クリスチャンは、「どうして、あなたは自分の知覚能力の絶対性を前提にものを判断するのですか? もしかして、あなたの知覚能力に限界があるかもしれないし、そのために、天使が見えないかもしれないじゃないですか。」と問いただすと、彼は、

 「いや〜。人間の知覚や経験は絶対なのですよ。いや、正確に言えば、絶対だと我々は『決めた』のですよ。だから、天使はいない、たとえいるとしても、それは無意味なものであり、知るに値しないと判断できるのですよ。」と答える。

 これが、近代人の認識論なのだ。

 つまり、「人間の知覚や経験を超えたことは存在しないか、存在したとしても無意味である。人間にとって意味あるものだけが、真理なのだ。」という宗教ドグマこそ、認識の基本にある。(*)

 近代の世界は、このように、「人間による人間のための人間が所有する世界だけを信じる、人間を軸に回転する自己完結した世界」なのだ。

 神とか宗教とか形而上的世界とかは、すべて首を切り落とされてしまった。

 カント以前は、まだ宗教とか形而上学に居場所があったが、カントにおいてこのような「人間教」が完結すると、人間教以外の一切の宗教が排斥され、切り捨てられた。一見すると、人間教は、他宗教に対して寛容であるように見えるのであるが、「人間の主権」を脅かす者には容赦ない迫害を加える。

 「学校での祈りや伝道」は禁止されるにもかかわらず、「ヒューマニズムの布教活動」は是認されている。外面的には、宗教に寛容であったソ連や中国など共産国において、クリスチャンや宗教人に対する迫害があったことは歴史が証言している。

 よく、キリスト教による魔女裁判や科学への弾圧などが、ヒューマニズムの学校において教えられるのであるが、ヒューマニストたちが殺害したり粛清したりした数と比較するならば、ほんのささいなものだ。ヒューマニズムが世界中で殺害したり強制収容所に送ったりした幾億もの人々の魂は、「ヒューマニズムはライバルを許さない排他的宗教である」ことを証言している。

 結論:ヒューマニズムは、「人間だけで成立する世界」を信じる「人間教」であり、彼らが主張する「科学」なるものは、けっして世界を客観的に見るためのものではなく、「『人間だけで成立する閉じられた世界』を論証するために存在する護教学」以外の何物でもない。

  このような「非中立な」立場をとる者たちが、創造科学を「擬似科学」呼ばわりするなど笑止千万なのだ。

 

 

(*)このような意見に対して、ヒューマニズム側は、「いや、近代の認識論は、けっして人間認識を絶対だとはしていない。人間認識が絶対ではないからこそ、科学はつねに反証の可能性を残しておく。」と答えるだろう。しかし、「反証を行う者も人間」であるわけだから、「人間だけで完結する世界」には変わりはない。「無限に続く論証・反証・論証・反証…」のサイクルの中に「人間を越えたもの」の入る余地はない。もし、「神は『それは間違いである。』と言われる。」とクリスチャンが言おうものなら、「そんな神を持ち出すなんて、科学の領域を逸脱している。」と答えるに違いない。
つまり、「人間を越えたものが意見をさしはさむ余地を残しているような世界を我々は作ってこなかったのだから、神にはいっさい介入してもらいたくない。」という立場をとっている者たちは、やはりその世界において「絶対者」なのだ。

  

 



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