死後のセカンドチャンスについて

 

<ご質問>
死後に福音を聞いて救われるチャンスがあるというのは、再建主義とは相容れない考え方ですね。
「地を支配せよ」とか、「出ていって、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によって、バプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」という命令が無意味なものになってしまうように思います。

<お答え>
A氏がどのような理由からこの説を主張しているのかわかりませんが、ルカの「金持ちとラザロ」のたとえにおいて、明らかに、「パラダイスとハデスの間には深いふちがあって、交互に行き来することはできない。あきらめよ。」とイエスは言われています。
また、そこにおいて、「たとえ、死者が生きかえっても、不信仰な人々はけっして信じることはない。」とも言われております。

このA氏の立場については、まだ調べなければなりませんが、恐らく、私の感想では、彼らの福音が「人間中心」であることから、このような考えが出てくるのだろうと思います。

聖書は、「人間は滅びるのが当然」という前提で救いについて語っています。そして、救いとは、「値のない者、滅びるのが当然の者に対する神の特別な恩寵」であり、それゆえ、私たちは「なんてありがたいことなんだ!私など滅んで当然な極悪人なのに!」と反応すべきです。

しかし、現代の福音を説く人々の多くは、「人間は救われるのが当然」という基準で救いについて語っています。だから、信徒が、「神様、私を救っていただいたのはありがたいのですが、何故、私の肉親は救われずに亡くなることを許したのですか?あまりにもむごいではないですか?」と開き直ります。

これは、神に対して「あなたは悪い」と言っているのと同じなのです。

神の計画をそのまま受け取るのではなく、自分の計画を神に受け入れさせようとしている態度であって、とても僕の態度ではありません。ここにも、今日のキリスト教が神を主権者として崇めていないのが明らかです。神を、人間の幸せに奉仕するミッキーマウスにしているのです。

私たちは、考え方を180度転換しなければなりません。自分を中心に宇宙を回すヒューマニズムの悪い常識から完全に脱却して、神を中心に宇宙を回す必要があります。しかし、これは、聖霊を受けた人々以外にはできません。聖霊と悪霊を区別するには、「イエスを主と告白するかどうか」を調べることによって分かる、とヨハネは言いました。

これは、単に「イエスは主です」というステッカーを車に張ることではありません。

自分の常識とか思想を徹底して捨てて、まったく聖書のみに立って、聖書が言うことをそのまま丸ごと受け入れる潔さがあるかどうか、なのです。
もし、このような潔さがなければ、その人は、イエスを主と告白していても、聖霊によって生まれ変わっているとは言えません。本当に聖霊が内側にあれば、「そうです。聖書の教えは絶対です。私は自分がどのような考えを持っていても、聖書がこうと述べたら、すぐに自分の意見を捨てて、聖書の示しに従います。」と言えるはずです。

もちろん、人間は弱い者ですから、突然すべてにおいて変わるはずはありません。しかし、そのような従順な気持ちを絶えず持つことはできます。失敗しながら、徐々に成長して、自分の意見を徐々に捨てて行くことは可能であり、聖霊はそのようにクリスチャンを導いてくださいます。

しかし、最初から、「聖書が何を言おうと、私は、私が信じたいものだけを信じます。」というような人は、聖霊を受けていないのです。

律法において、律法を破るつもりがなくて破ってしまった場合には、贖いは適用されますが、「故意に、意図的に律法に違反する罪」は、絶対に許されませんでした。わざわざ安息日に薪を拾った人は処刑されました。「たかが薪拾いくらいで…」とは言えないのです。彼は、神の立てた秩序に真っ向から挑戦したのです。どの国家においてもそうですが、国家の権威にまっこうから逆らい、それをつぶそうとする革命家には反逆罪が適用されて、重罪に処せられます。

私たちが許されるのは、「出来心で犯した罪」だけです。「意図的に入念に犯された罪」には贖いはありません。悔い改めて、「ごめんなさい。またやってしまいました。」と言う人は許されますが、頑固に「神の法」そのものに挑戦し、「これを行って何が悪い」というような人は許されません。

私は、もしこの牧師が、「聖書は何を言っていても、私はこう信じる」という立場を取るならば、はっきりと偽教師であることが明らかになると思います。いかに多くの人々が集っていても、それが人間的な魅力によるのであれば、まったく意味がありません。聖書の教えに惹きつけられてやってくるのでない限り、教会の人数などまったくどうでもよいことなのです。

私の印象では、彼は、人間中心の教えを説き、人間の幸せを前面に出して人を集めてきたのではないか、と思います。その延長線上に、「死後の救いの可能性」が出てきたのではないかと思います。つまり、「皆さん。毎日大変な中御疲れ様です。神様はあなたを愛してくださっていますよ。あなたの肉親が信じないで亡くなったとしても、死後にもチャンスはありますから安心してください。神様はそんな無慈悲な方ではありませんから。」と。

もし死後にもセカンドチャンスがあるならば、「な・ぜ・伝・道・し・な・け・れ・ば・な・ら・な・い・の・か?」

なぜ、宣教師がジャングルの奥地にまで足を運んで、生命をかけて伝道しなければならないのか?
そんな、危険を犯さなくてもよいではないか。
もし神が死後に直に死者に福音を伝えてくださり、セカンドチャンスを与えてくださるならば、宣教団体は、「ああ、この地域は国境紛争もあり、風土病が多く、これまで宣教師が何人も亡くなっているから、これは死後の神様による直接宣教に任せて、我々のターゲットは文明地域に限定しよう。」ということにならないでしょうか。

「死後のセカンドチャンス」は、大宣教命令を根底から覆します。

この教えは、一見すると、「神の愛」を説いているように見えますが、根底において、伝道のモチベーションを著しく下げるので、バルト神学の普遍救済主義のように、教会の発展を大きく阻害する教えであると思われます。

 

 

02/05/04

 

 

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