数字と『ことば』

 

 この世において、価値を表す主要な基準の一つは「数」である。

 今月の売上は○○円である。

 本日の入場者は○○人である。

 彼は、毎月○千万円を稼ぐ金持ちだ。

 ○○教の信者数は○○人だ。

 どこの大学を出たか、とか、どんな肩書きがあるかとかも、結局何らかの数において優れていなければ無意味とされる。

 どんなに社長であるといっても、従業員の数が1人か2人であればあまり評価はされない。どんなに高い学歴を持っていても、それが世間において何らかの優れた数字を出していない学校であれば評価はされない。

 例えば、司法試験や上級公務員試験の合格者、一流企業の就職者などにおいて優れた実績を出していない学校の偏差値は高くはなく、世間での評価も低い。

 人は、数字において実績を上げるまで信用されない。

 弟子達に見捨てられ、一人ぽっちで十字架上でもがき苦しむイエスを見て、世の人は「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ」とあざけった。「彼はただの大工のせがれじゃないか。」

 パウロは、ぼろぼろの衣服を着、鎖につながれて、煌びやかな衣服を身に着けたローマの総督の前に立った。

 

 今日では聖人扱いされ、世界史において最も影響力のある人物とされているパウロであっても、当時は、謬説を流布し、世間を混乱させる極悪人でしかなかった。

 世はローマの威光に包まれた総督に目を留めるが、真のクリスチャンはぼろをまとったパウロに目を留める。

 世人は数字を見るが、クリスチャンは『ことば』を見る。

 

 なぜならば、真のクリスチャンは、「世界は『ことば』によって成立した」ということを知っているからである。

 数字は結果であるが、『ことば』は可能性である。

神の真理は、『ことば』に目を留める人しか理解できない。

 

 

 



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