イエス・キリストの受肉について

 

<ご質問>ローマ書1.3にイエス・キリストは「肉によればダビデの子孫」とありますが、「肉」というのはどのように解釈すればよいのでしょうか?

<お答え>「肉」とは、文字通りの肉体のことで、キリストの肉体は、ダビデの子孫ヨセフとマリアから生まれていることを示しています。

ただし、ヨセフとマリアの遺伝子を受け継いでいるかというと、聖書ははっきりと、「彼らが同居する前にマリアは聖霊によってイエスをみごもった」と記していますので、厳密な意味において彼らの子供ではありません。

それは、人間の肉体は、アダムにおいて堕落しており、アダムから生まれ、彼の遺伝子を受け継ぐものはみな生まれながらに堕落しているというのが聖書の主張だからです。

イエスは、マリアの胎内において、マリアの遺伝子をまったく受け継いでいない「聖霊による新しい創造」の子供であり、アダムからマリアに引き継がれた堕落から完全に解放されています。

イエスは、完全な「新人類」であり、アダムの直系の人間とは異なる人間です。それゆえ、原罪を受け継いでいません。

ただし、彼はそれでもやはり、人間であり、それゆえ、人間の罪を背負って刑罰を受けることができるのです。

キリストは、人間の罪の刑罰を身に受けて十字架上で贖いの死を遂げられました。

それは、「御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の生命を得るため」(ヨハネ3・16)なのです。

キリストは、私たちが永遠のいのちを受けて、神とともに永遠に祝福の生活を送ることができるために、十字架にかかって死んでくださいました。キリストを信じる者の罪はすべて許されて、神のみもとに自由に大胆に近づくことができ、神の子供となる特権を与えられるのです。

また、キリストは、人間アダムができなかった「神への完全服従」を達成し、神に受け入れられる完全な義を獲得しました。それゆえ、だれでも信仰によってキリストにつながれている人々(すなわち、キリスト族)は、みな、キリストと同じように、神の基準を完全にクリアした者とみなされるのです。

まとめ:

(1)「肉」とは文字通りの肉体を意味する。

(2)キリストの肉体は、ヨセフとマリア(両者ともダビデ族の末裔)から生まれたので、「法的に」ダビデの子孫である。

(3)ただし、キリストはヨセフとマリアの夫婦関係によって生まれた(すなわち、彼らの遺伝子を受け継いでいる)わけではなく、聖霊による新しい創造であった。すなわち、「生物学的な意味では」ヨセフとマリアの子供ではない。それは、生物学的に彼らの子供であることは、すなわち、アダム以来の原罪を受け継ぐことになるからである。

(4)新人類キリストに信仰によってつながる人々は、みなキリスト族であり、新しい人類の一員である。彼はもはやアダム族ではない。

 キリスト族の人々はみな、キリストとともに永遠の生命を受ける。それは、彼らが、頭(かしら)であるキリストの義を転嫁されているからであり、また、キリストの十字架において罪を完全に赦されているためである。

 

<ご質問>(1)「肉」を文字どおりに解釈してしまうと、イエスはヨセフとマリアが性交渉(←ぶしつけな表現でスミマセン)をした結果として誕生してことになるから、「聖霊」によって受胎したことと矛盾してしまうのではないでしょうか。

<お答え>「肉」だから「イエスは性交渉によって妊娠した。」ということは言えません。

 「肉」だから「イエスは聖霊によって肉体を与えられた。」というのが聖書の主張なのです。

 おわかりでしょうか。

 聖書において、「イエスは完全な人間であって、我々と同じ肉体を持っていた。」と言われています。だからといって、「ああ、じゃあ、ヨセフとマリアの性交渉によって肉体を与えられたのだな。」とは言えない、「その肉体の始まり(胚)は聖霊によって造られ、マリアの子宮に着床し、そこにおいて成長し、時いたって出生した。」ということなのです。

 

<ご質問>ある方から「肉」というのは「この世的、世俗的な考えでは」ということを意味すると教えて頂きました。しかし、聖書事典などをひもときましても、そのような意味があるとは書かれていなかったように思います。しかし、「肉」に「この世的、世俗的な考えでは」という意味が聖書が書かれた当時にあったのなら、矛盾がないようになると思うのですが、いかが思われますか?

<お答え>この説に立って、ローマ1・3を読むと、「御子は、世俗的な考えでは、ダビデの子孫として生まれ」となります。

 しかし、「ダビデの子孫として生まれる」ということが世俗的であると考えることはできません。なぜならば、聖書は繰り返してキリストはダビデの子孫として生まれると予言しているからです。聖書が述べていることを世俗的とすることはできないので、「肉」=「世俗的」と解釈することには無理があると思います。

 

<ご質問>(2)「法的に」ダビデの子孫である、すなわち「系図上」ダビデの子孫であるだけでも、「イザヤ書 11章1節」の預言は成就したと考えてもよいのでしょうか?

<お答え>そうです。ヨセフとマリアの実際上の子供(すなわち、性交渉によって誕生した子供)でなければ「イザヤ書 11章1節」の預言は成就しないとするならば、キリストは、アダムの堕落を相続することになるので、「贖い主」になることはできません。自分自身が救われるべき存在が、他人を救うことはできません。自分に罪がある人間は、自分の罪のために死ななければならないので、他人の身代わりになることはできません。

 

 

<ご質問>(3)たしかtomi 先生のホームページに「ユダヤにおいて相続は父系相続だったので、ヨセフがダビデ王の子孫であることが証明されなければならなかった」とありました。マタイのイエスの系図とルカのイエスの系図の相違の説として「マタイはヨセフ、ルカはマリアの家系を記述した(すなわりヘリはマリアの父でヨセフの義父)」というものがありますが、それは信憑性が低いということになるのでしょうか?

<お答え>ヘリがマリアの父親であったかについては数多くの異論があるのではっきりしたことは言えません。両方とも、ヨセフの系図という形を取っているので、やはり父系継承が原則であると考えられていたことに変わりはありません。

<ご質問>(4)定説によれば(←グル高橋ではアリマセン)、聖書にはダビデの子孫であるのはヨセフであることだけしか書かれていないのですが、いかような解釈でマリアもヨセフもダビデの子孫であることになるのでしょうか?

<お答え>この点について、一般に採用されている説の概略を記します。

  1. ルカ1・27において、「ダビデの家の('εξ οικου Δαυιδ)」 という形容句は、「おとめ」をも形容していると考えられること。つまり、この節は、「(御使いガブリエルが)ヨセフという名の人のいいなづけであった、ダビデの家系のおとめのところに(使わされた。)」と訳することもできる。
  2. ザカリヤは、マリアの胎にいる救い主が「ダビデの家」に立てられた「救いの角」であると告白している(ルカ169)。エリザベツも同様である。御使いはイエスがダビデ族に属することを認めている(ルカ132)。
  3. 福音書記者がイエスを「ダビデの子」(マタイ92715222030,31、マルコ1047,48)と述べているということは、マリアをダビデ族と考えていたことを示唆するのではないか。

 

 

 

 



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