諸先輩の努力に敬意を払うべきだ2

 

情報について無料は存在せず、情報を受けた段階で、その環境がどのようなものであれ、本来支払い義務が生じるという私の趣旨をなかなかご理解いただけないようです。

今回の経緯は、質問をした人々が、3-4時間かけて、場合によっては数日かけて答えたものに対してレスポンスがない、逆に罵倒をあびせるクリスチャンがいるので、「情報が無料というので何でもやってよいのだ」と考えるのは間違いだ、ということから発したことです。

そういった了見は、聖書的ではない。クリスチャンは、むしろ、「本来」情報に対してその代価を支払うように聖書において、命令されているわけですね。「働き人が報酬を得るのは当然である」と。だから、もし、相手が無料で提供することを進み出ているならば、感謝をしなければならない、と。

感謝もできないようなクリスチャン、相手の好意を当然とするそのずうずうしさが聖書的な態度ですか?という問いかけから発したわけですね。

この点を御理解ください。

このような侮辱は、牧師や教職者は普通黙って我慢している。

無律法なクリスチャンが、情報が無料なのに、なぜ無料を受けることをよしとすることが悪いのだ、と言う「やらずぼったくり」を当然とする態度があっても、黙って耐えている。

イエスがペテロの足を洗うと、最初は「もったいない」と言っていたペテロが「頭も洗ってください」と言い出した。

恵みになれるとそれを当然のことと考えて、「もっと出せ」という。

インターネット上において、情報を無料で提供している「好意」を、「権利」と考えるようになれば、このペテロと同じことをすることになるのです。

任意加入である教会の牧師もこれと同じことを無数にされている。さんざん相談にのり、離婚騒動や非行問題にかけずり回って苦労しても、その労力をかけた人間が、自分をののしって砂をかけて去って行く。

こういった無礼と忘恩に牧師や伝道者は無言で堪えている。

私は、このような無数の牧師や伝道者が発している暗黙の抗議を言葉にしないと、クリスチャンが誤解してよくないと考えているので、あえて読者の憤激を恐れず書いているのです。

次のクリスチャンの常識に対して問題提起します。

(1)教会は任意加入の団体であるから、献金も任意である。
(2)献金は任意でするものだから、教会に十分の一を捧げる責任はない。
(3)牧師や伝道者は金のために伝道しているのではなから、薄給に甘んじても仕方がない。
(4)牧師や伝道者に相談しても、彼らは愛の奉仕をしているのだから代価を払う必要はない。

このような常識は、「愛の命令の対象を相手に限定する」という傲慢な心から生じています。

つまり、聖書において「隣人を愛せよ」という命令を、「だから、私は積極的に人を愛そう!」と自己に適用するのではなく、「だから、あなたは私を愛するべきだ」と相手にのみ適用している。これは、利己心から出る間違った態度なのです。

そして、私は、もし聖霊によって生まれ変わり、兄弟姉妹を愛する心があるならば、相手に苦労をかけることを厭い、むしろ、相手に益を与えるように努める能動的なクリスチャンになるはずだ、と考えます。

すなわち、兄弟姉妹を積極的に愛するかどうかは、その心が本当に生まれ変わっているかどうかによって左右されるのです。

イエスは、最後の審判は、「あなたはクリスチャンを積極的に愛したか?」という点をめぐって行われる、と言われました。

「そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。』 」(マタイ25・32-46)

その人が本当のクリスチャンであるか、それとも偽クリスチャンであるかの違いは、兄弟姉妹を行いによって愛しているかどうかにおいて明らかになります。

兄弟姉妹が好意で行ったことを「当然の権利」として主張し、自分の意にかなわない場合には、捨て台詞を吐いて出て行くような人は、山羊なのです。

また、兄弟姉妹が苦しんでいても、それに目を閉じるような人は、本当は生まれ変わっていないのです。

聖霊は、クリスチャンを愛しているので、聖霊がうちにあれば、彼はクリスチャンを愛するはずです。クリスチャンや、とくに、牧師や伝道者が生活に困っていることが明らかになれば、積極的に「先生、これは献金です」と銀行に振り込んだり、記名・無記名で郵送します。

しかし、聖霊がうちにない人は、クリスチャンに対する愛がないので、クリスチャンを利用しようとします。自分の利益が第一なので、彼は、クリスチャンが困ろうと、牧師や伝道者が薄給に甘んじて困窮にあえいでいようと、おかまいなしに問題を投げかけ、困らせ、迷惑をかけ、あげくの果てには捨て台詞を残して去って行きます。

彼の運命は永遠の地獄です。

「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」

なぜか?

「この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかった」からです。

とくに聖書においては、牧師や教えに携わる人々には、「2倍の給料を払え」と述べています。

「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。 」(1テモテ 5・17)

だから、「教えを説いている諸先輩」に対して、「ただで教えて当然だろう」というような人間は、「二重に」ノンクリスチャンであることが明らかなのです。

「良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。 」(マタイ7・18)

行動を見ることによって、その内実は暴露されます。

今日の教会が山羊に占領されていることは、「クリスチャンに対する無慈悲、無礼」とくに「教職者に対するそれ」において顕著に現われているのです。

 

 

02/05/01

 

 

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