ある大物牧師による再建主義に対する中傷について

 

 ある大物の牧師が、再建主義を異端に近い教えだとボロクソに言っていると聞いたので、反論します。

 彼は、私が11年前に、(1)経綸について、(2)セオノミーについて、(3)ポスト・ミレについて述べたことを問題として、私の立場を「異端ではないが危険な教え」と教会において宣言した人です。

(1)経綸について

 この牧師は、わたしの言葉の一部を取り上げて「再建主義は旧約聖書と新約聖書の間には経綸の違いはないと宣言した」と繰り返し繰り返し主張しました。それに対して、私とT師が「もし経綸の違いがないと言うならば、それは間違いだ。そんなことは言っていない。」と主張したにもかかわらず、至るところで、この話をして、聞く者に誤解を与えています。

 このHPにおいて主張しているように、私は、旧約聖書と新約聖書の間に「民族的」と「超民族的」の経綸の違いがあると主張してきました。旧約聖書においては、ユダヤ民族が特別に選ばれて、神の民とされましたが、新約時代においいては、ユダヤ人と神が結ばれた契約の中に、あらゆる国民が入り、もはや、救いに関して民族の障壁は撤廃されたと考えます。

 しかし、この牧師は、常々メッセージの中において、旧約時代は物質的時代で、新約時代は、霊的時代である、と述べ、経綸の違いは、霊と肉の違いであると主張しました。

 これは、明らかに間違いです。

 旧約時代において物質的な祝福があったのであれば、新約時代においても物質的な祝福はあります。病気のときに祈れば、健康にしていただくこともありますし、お金に困れば、不思議な方法で与えられることがあります。このような物質的な祝福は、旧約時代、新約時代の区別なくあるのです。また、物質的な呪いも、旧約、新約を問わず、あります。神の戒めを破る人々が、健康を損なったり、死んだり、貧乏になることがあります(ただし、すべての病人、死、貧乏が呪いの結果だと言おうとしているのではありません)。これは、コリントの手紙において、「ふさわしくないままで聖餐のパンとぶどう酒を受けたために、契約的さばきがくだり、死んだ人々や病気になった人々がたくさんいる」と述べています。旧約と新約を、「霊」と「物質」の違いとして区別することはできないのです。

(2)セオノミーについて

 今日でも、律法を守る必要があり、それを生活のあらゆる部分に適用すべきであると私が述べたところ、彼は、「なぜそのような戒めによって人々を縛ろうとするのか」と言いました。律法は、人を縛ることではありません。むしろ、聖書が宣言しているように、律法は「知恵」なのです。姦淫を犯したり、盗みをしたり、殺人をしたりすることは、自由ではなく、むしろ、束縛なのです。罪を犯す者は罪の奴隷なのです。もし律法が人を縛るものであるならば、神は「ユダヤ人を縛って苦しめた張本人」ということになります。しかし、ユダヤ人は律法を愛していました。そして、律法を落ち度無く守ったザカリヤは聖書記者によってほめられています。

 この牧師は、常々、メッセージの中で、「殺人してもいい、姦淫してもいい、しかし、すべてが益となるわけではない。」と述べていました。つまり、彼は、無律法主義者でした。

 しかし、彼は、同時に「主に従いなさい。」と述べていました。わたしは、この二つの相矛盾する命題を解決することができませんでした。「殺人や姦淫をしてもよい。しかし、主に従え???」

 このような矛盾を多くの現代のクリスチャンが感じていることでしょう。主に従うことは教えられても、その方法は「律法ではない」わけですから、結局、主に従うという内容が見えてこないのです。

 これは、すべて、律法についての誤解から生じているのです。彼らは、律法は廃棄され、今日では効力がないと考える無律法主義に影響されているのです。

 聖書では、律法は廃棄されていないと述べられています。イエスは、律法を守るなと教える人は天の御国においてもっとも小さい者と呼ばれると教えておられます。パウロも「律法が言うように、…しなさい。」と述べており、「信仰は律法を確立する」と述べているのです。

 しかし、彼らは、「我々はもはや律法の下にいない」という聖句を根拠に、律法に縛られてはないのだ、律法を守る必要はないのだ、と考えるのです。パウロが「我々はもはや律法の下にいない」と言ったのは、「キリストの贖いを受けて救われた人々は、律法の刑罰の下にはない」という意味であって、律法の導きそのものが効力を失ったわけではないのです。

 刑罰を振りかざす律法は、キリストにおいて成就され、十字架の刑罰において刑がすべて執行されたのですから、無効です。しかし、案内役としての律法は効力を失わず、我々を導く生活の指針として残っているのです。また、律法に従うことによって祝福を受けることができるのです。

 この牧師は、「たしかに十戒を守るというのはわかる。しかし、その下の細則(屋上には手すりをつけろ、など、こまごまとした律法)を守る必要はない」と言いました。しかし、細則も含めて、イエスやパウロは「律法は廃棄されていない」と述べたのです。ですから、細則をも守る必要があります。では、「牛にくつこをはめてはならない」という規則があれば、「じゃあ、牛を飼わなければならないのか?」と考える必要はありません。パウロが述べているように、これは、「働き人が報酬を得るのは当然である」ということを述べていると解釈しなければならないのです。つまり、旧約聖書の律法の本質を適用すべきだということです。

 聖書が神の御言葉であり、そのどのような個所においても、神の御心が啓示されているというのが事実であるならば、旧約律法の細則においても、神の御心が啓示されていると考えなければなりません。さらに言えば、実は、細則は、十戒という基本法の内容を神ご自身が具体例をもって明確化されたものなのです。

 例えば、「殺してはならない」という戒めが十戒にあります。しかし、人それぞれにおいて、「殺す」ということの意味が異なります。例えば、ある人は、「死刑制度は反対だ。どんな極悪犯であっても、殺してはならないのだ。」と言う人々もいれば、「胎児は人間ではないから、中絶は殺人ではない」と言う人々もいます。「殺す」とは一体どのようなことなのでしょうか。実は、神は、「殺す」ということの意味を、この細則の中において示しておられるのです。神は、「故意の殺人者を処刑せよ」と述べています。それゆえ、「故意の殺人者の処刑」は「殺人」ではないのです。また、神は、「身重の女に突き当たって、その胎児が死んだ場合、その人は殺人者である」と述べておられます。つまり、中絶は殺人なのです。

 我々が信じているセオノミーの立場とは、このように、旧約聖書の律法のあらゆる部分に意味を見つけて、それを現代の様々な生活に適用していくことを目指しているのです。

(3)ポスト・ミレについて

 この牧師は、常々、「私の目の黒いうちに日本をキリストのためにひっくり返して見せる」と豪語していました。

 しかし、わたしが、「日本も世界もいずれ神の弟子となる」と主張すると、「そんなこと、あり得ないんですよ。」と吐き捨てるように言いました。これは、明らかに矛盾しています。

 ポスト・ミレは、「神が全能であれば、『世界の諸国民を弟子とせよ』というイエスの命令は必ず実現する」と主張します。

 しかし、この牧師は「そんなこと、不可能だ!」と宣言したのです。つまり、彼は、「イエスの命令に向って『主よ。そんなことできっこないです。』」と述べたのです。

 これは、荒野で、「カナンの地を占領せよ。」と命じられたのに「そんなことできっこありません」と述べた不従順な民と似ています。

 これは、恐ろしい罪です。おじけづいた民が、40年の間荒野をさまよってついに、そこで死に絶えたと同じような運命が彼を待ち受けています。その後、彼の教会が、四分五裂したのは有名な話です。神に真っ向から逆らう人に下る裁きを我々も恐れなければならないのです。

 

 わたしは、今日の指導的牧師たちがポスト・ミレを拒むことのないように祈ります。なぜならば、彼らが、この大物牧師と同じように、ポスト・ミレを拒むならば、彼と同じ運命をたどることになるからです。

 神が『できる』と述べたことを、『できません』と言っては絶対にならないのです!

 アーメンでしょうか?

 

 

 

 

2001/08/28

 

 

 



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