ハーザー誌7月号奥山氏の反論

 

 D君の名前が明らかになったが、私が予想していた富井師ではなかったので、少し失望した、富井健師には申し訳ないが。

 私が予想していた富井師は、現在神戸改革派神学校で、旧約学を教えている筈だが、よくヘブル語を学んでいる人で、神学校では私の後輩になり、謙遜な好人物である。

 富井健師について、編集部にどんな人か尋ねたら「若い人」と言うので、D君とする。

 はっきり言って、D君の応答には失望した。

 これは応答ではない。

 前の私の論文には、ポスト・ミレならどうしても応答しなければならない重要なポイントがあるのに、全くノーコメントで、「とにかく、ポスト・ミレこそ正しいのだ」と言っているだけである。

 これでは議論にならない。

 議論と言うのは、ABが噛み合って展開し、真理に向うものなのだ。

 D君のはシュプレヒコールであって、何の実りもない。

 実は、『ハーザー』五月号の私の論文を読んで、早速に改革派神学を身につけている私の友人から電話が来て、論文に応答して来た。

これが本当の応答で、電話だけではらちがあかないので、二人で会つて議論を進めることになっている。これが実りある議論なのだ。

 

 五月号に載った私の論文は、「ポスト・ミレは進化論の影響を受けている」、その証拠を示した。ここまで言われれば、ポスト・ミレとしては、どうしても応答しなければならない。

 それと、改革派神学の誇りである、「文化命令」を批判したのだが、これなど神学的大問題である。

これは文化の問題で、ポスト・ミレにとっても重大なことだ。

 こんな大事な問題に、D君は全く触れていない。私から言わせると、触れることが出来なかったのだと思う。もしD君が謙遜な人物なら、「こんな難しい問題は私には分かりません、しかし…」と自分の主張をするものだ。ところが、「分かりません」と言いたくないので、別のことを語っているのだと准測する。これでは議論にならない。

 D君は参考にした本を、しかも英語の本を山ほど列挙している。

勉強は悪くないが、そんな勉強よりも、若い時は、必死になって救霊に励むことである。

 それほど勉強しても、D君の主張には矛盾がある。ポスト・ミレの流れの中で勉強しているからである。前に忠告したのだが、「ポスト・ミレの解釈を一度忘れて、

聖書そのものから考えてごらんなさい」と。ところが、そのことにも触れていない。

「先生の忠告通りやってみましたが…」とか答えるべきなのであ

る。これは常識的な対話であって、一般にこの種の対話の出来ない人間は、伝道でも牧会でも実を結ぶのが難しい。だから、若いD君への忠告は、本を読むのは良いこと

だが、もっと常識的な対話などを身につけなさい、と言うことだ。

 D君のポスト・ミレ解釈の矛盾を暴露するのに、実は嫌気がさしているのだが(人の弱点を責めるのは気持ちの良いものではない)、D君が少しでも聖書的になるのを期待して書くことにする。

 すでに読者方は気付いていたと思うが、D君はとんでもない非聖書

的主張をしている。

(一)まず第一に、さかんに、「サタンはすでに縛られている」と主張する、あちこちの聖句を引用して、

(ニ)ところが篤くなかれ、サタンが縛られることが、最も明確に

書かれている黙示録ニ○節ニ節「…これを千年の間縛って」の「縛る」というギリシャ語は、「必ずしも完全な自由剥奪を意味していません」などと言っている。つまり、ここの「縛る」は本当の縛りではない、と言う。これだけ聖書を歪めている。きっと読者方は、あきれ果てていることであろう。

 リベラルの神学者たちが、主イエスの処女降誕や肉体の復活を否定するため、さかんにヘブル語やギリシャ語を使うのと、そっくりである。これらの神学者たちは、もともと処女降誕や肉体の復活をい否定しようという意図で、ヘブル語、ギリシャ語を使う。

前に書いたように、多忙で真面目な信徒を騙すのは、「原語によれば…」と言って煙にまくのだ。多忙な信徒方はヘブル語やギリシャ語を身につける暇はない。

だから翻訳がある。

 だから、日本語で読んでも、聖書が明白に主張している真理を、新生した信徒は、さちんと理解している。処女降誕も、肉体の復活も、聖書の明白な、主張で、それを良く知っている。そして信じている。ウェストミンスター神学校で学んで来た、あるカルビン主義の神学者が「パウロは悪霊の存在を信じていなかった」と言う考えられないことを主張するのに、さかんにギリシャ語を使っている。こんな神学器より信徒の方が遥かに聖書的である。

 黙示録二〇章二節から、サタンが終末期に「縛られる」ことを、まともな、新生した信徒は皆知っている。そして信じている。そしてそれが正しい。本当かどうか分からないギリシャ語の解説などに騙されてはならない。

 その信徒の正しさを、聖書から証明しておこう。

 ニつの聖句で充分である。

(一)第二コリント四章四節〜

「この世の神が不信者の思いをくらませて〜」

 D君はさかんに、サタンはすでに縛られている、と主張するが、縛られた筈のサタンが、不信者の思いをくらませて、福音を信じないようにしている。つまりまだサタンは活動している訳である(D君は「コロサイ二章五節」から、「サタンはすでに縛られているとはっきり述べられている」と主張している。この場合、D君は「第二コリント四章四節」を思い出して、「コロサイニ章一五節」をどう解釈すべきかを考えなければならないのだ。しかし、ポスト・ミレを証明しようという意図があるので、正しく聖書を解釈できないのである)。

 だから、「第二コリント四章四節」で聖書が明らかにするのは、「この世の神が不信者の思いをくらませている」と言うこと。

(二)黙示録二〇事二節、三節

「これを千年の間縛って、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。」

 このように、明らかに、サタンが縛られたので、「諸国の民を惑わすことがない」。

@第二コリント四章四節では、この世の神(サタン)が「不信者の思いをくらませて」いる。

 ところが

A黙示録二〇章二節、三節では「それが諸国の民を惑わすことがない」

 これは、日本語で読んでも、英語で読んでも、ギリシャ語で読んでも、明々白々な真理なのだ。つまり@ではサタンが縛られていないので、「人々を惑わし」、Aではサタンが縛られたので、「人々を惑わすことができない」。実に単純で明快なのだ。誰でもわかる。これを逆転させて、第二コリント四章四節でサタンが縛られ、黙示録二〇章二節ではサタンはまだ充分に縛られていない、と聖書の真理をネジ曲げて、ポスト・ミレを証明しようとしている。つまり白を黒と言っているようなもので、この種の騙しに最適なのが「ギリシャ語によれば」なのだ。多分D君も、どこかの神学者に騙されたのであろう。

 聖書をどう読んでも、パウロが悪霊の存在を信じていなかったと言うことはでさない。パウロが悪霊の存在を意識し、悪霊を追い出し(使徒一六・18)、それとの対決を訴え(エペソ六・12)ていたのは明白である。ところが。前述のカルビン主義者(ウェストミンスター神学校で修士号取得)は、さかんにギリシャ語を使って、パウロは悪霊の存在を認めていなかったと主張している。こんな人間は聖書を研究する資格はない。「聖書にきく」、というより、自分の非聖書的世界観で、「聖書を歪曲」していくからである。こんな人間にヘブル語、ギリシャ語などやらせると、「狂人に刃物」となる。

 D君はそこまで堕落してはならない。

 私も勉強は好きである。とくに語学は好きで、新約聖書のコイネー・グリークと、旧約聖蓄のヘブル語、さらにアラム語、興味は現代ギリシャ語、現代ヘブル語にまで及んで、今も学んでいる。だからヘブル語、ギリシャ語の学びは、これからもコツコツとやることである。語学は宝であるからだ。

 神学については、前回忠告したように、読んでいる本が、片寄っているようなので、別の種類のも読むように。そうしないと、リバイバリストのフィニーまで悪人になってしまう。

 ただ若いD君は、神学に夢中になるより、もっと基本的な、救霊に励むことである。

 というのは、私が日本基督教団という、日本一大きい教団にいた時のことだが、救われて、熱心に個人伝道に励んでいた若い信徒たちが、次々に伝道しなくなる。個人差はあるが、その一つの大さな理由は、突然、バルトやブルトマンの神学にのめり込み、教会の伝道を軽んじ、チラシ配布などしなくなり、個人伝道も忘れて行く。そして背伸びしながら、牧師と神学的議論をして無駄な時を過ごして行くのだ。つまり、あまりに早く、神学にのめり込んだ。勉強するのは悪いことではない。しかしもっと、伝道者がなすべき基本的なことがあるのだ。

伝道者がなすべき、地道な救霊にもっと集中することである。

 これ以上D君の誤まりを指摘したくないが、今後のために明らかにしよう。読者のためにも。

 D君は黙示録二〇事三節の「千年」を文字通りに解釈すると、黙示録二一章二節の「エルサレム」も文字通り二〇〇〇キロ四方の広がりのある六五メートルの高さの城壁が天から下ることになる、などと間抜けなことを言っているが、これなど馬鹿らしくて反論する気にもならない。黙示録二一章一節を読みなさい。「新しい天と新しい地とを見た」とあるではないか、そして二節には「新しいエルサレム」とあるではないか。「新しい」に注目しなさい。信徒でもD君のような馬鹿は言わない。

 そのようにカルビン主義神学者が、かつて信徒を嘲笑して、「イスラエルはパレスチナに建国できるわけがない」と主張して失敗した。信徒に学ぶことである。

 宗教改革後二〇〇年も、まともな海外宣教(今は世界宣教という)をしなかったプロテスタントを、海外宣教する教会に変えたのは、靴直し職人の信徒説教者ウィリアム・ケアリなのだ。

 信徒が歴史を変えたのだ。

 プレ・ミレが勢いを得たのは「平信徒」によるとD君は言うが、主が誰を用いようと主の主権による。信徒が大いに用いられて何が悪いのか。D君は長々とプレ・ミレのことを何かの本で読んで書いてから、結局プレ・ミレは「異説」であり「珍説」であり「正統的な教会から相手にされませんでした」と貶すのであるが、「正統的な教会」とはいったい何であるのか。二〇〇年も海外宣教をしないで、眠りこけていた教会である。そして分裂を繰り返していたのだ。ルーテル教会は教会の堕落によって、フリーチャーチムーブメントがヨーロッパの中で起き、これも分裂と教会による迫害が続いたではないか。

 主なる神はプロテスタントが世界宣教するようになるために信徒のウィリアム・ケアリを用いたように、プレ・ミレ拡大に信徒を用いた。そして信徒たちはパレスチナにおけるイスラエルの建国を、聖書に基づいて主張し、その通りに、イスラエルは建国し

た。そして「そんな非常識なことは起こるわけがない」とそれらの信徒を嘲笑し、軽蔑したカルビン主義神学者たちは大失敗したではなかったか。

 このように神学者は、致命的失敗をする。ところが悔い改めがないのだ。その傲慢のゆえに。

 ドイツのウィテンベルグ大学の神学部は、二人のドイツ人宣教師(Bartholomew Ziegenbalg, Hernrieh Plutschau)に、なんと「偽預言者」というレッテルをはって海外宣教に反対した。これがD君のいう正統派教会の海外宣教への反応なのだ。

 このように、神学者は致命的失敗をする。神学書ばかり読んで、聖書をあまり読まないと、こういうことになる。

 D君の「ポスト・ミレと世界宣教」の独断と偏見にはあきれ果てた。読む本が偏っているので、別の種類の神学書も読みなさい、と前回忠告したことを忘れないように。

「ポスト・ミレだから海外宣教をした」という誤った考えを、今日限り忘れるように。私が神戸改革派神学校で学んでいたとき、海外宣教に召され、フィリピンに出かけようとしていた尾山令仁先生が、証に来た。

「どうしても証をさせてほしい、と強い要請があったので」と神学枚側は言っていた。それは他教派の者にチャペルで話しをさせてはならない、みたいな見えないい原則があったからだが。」

 とにかく、その世界宣教への召しの証への反応は、全く冷淡なもので、ア・ミレ、ポスト・ミレの誰も感動せず、あまつさえ、岡田先生が批判のコメントをした。ウィンテンベルグ大学のように「偽預言者」と言わなかったのは、不幸中の幸いであったろう。

 これが正統派教会や、ポスト・ミレ、ア・ミレの海外宣教への反応なのだ。

 いくらポスト・ミレを学んでも、世界宣教に燃える、などということはないのだ。いや、そのような人もいます、というなら、プレ・ミレを学んでも世界宣教に燃える人もいる。ルーテル派でも、ブレザレンでもいるだろう。だから神学と関係はない。だから、この問題はプレ・ミレとかポスト・ミレの問題ではないのだ。

 教会が世界宣教に燃え上がるのは、神学によるのではない。聖霊さまによるのである(使徒一・8)。そのとき、プレ・ミレであろうが、ア・ミレであろうが、ポスト・ミレであろうが、聖公会でも、ルーテルでも、パブテストでもブレザレンでも、世界宣教に立ち上がる。

 ポスト・ミレだから世界宣教に励んだ、などの寝言は二度と言わないことだ。

 そしてD君は宣教史については、全くわかっていない。「奥山師はケアリの宣教を妨害したのは、ライランド博士などカルヴァン主義者だったと述べておられますが」と書いているが、この書き方は、「奥山師は、広島に原爆を落としたのはアメリカだと言っておられますが」と言うのと同様な表現なのだ。私が言おうと、誰が言おうと、アメリカが広島に原爆を落としたのは、歴史的事実なのだ。

 それと同じように、ライランド博士が、ウィリアム・ケアリに「若いの座れ。神が異教徒を回心させようとなされるなら、お前や私の助けなどいらないのだ」と言って海外宣教に反対したのは、歴史的事実であって、宣教学者だけが知っている事柄ではない。だから、このことについて何か言うことがあれば、このような場合は「一般に…と言われていますが」と書くべきである。私は宣教学が専門なので、その後のことを説明すると、ライランド博士をはじめ教団の指導者たちは皆反対で、次の総会の分科会に十二名の無名の牧師と一人の信徒、計十三名が集まり、教会が参加しないので個人の約束献金ではじめるほかはなかったのだ。そして最初の献金は十三ポンド二シリング六ペンスであつた(今この文章は旅先で書いている。このくらいのことは資料など読まなくてもわかる。D君のように本を読まないとわからないようではお話にならない。D君のようなのを「書斎科学」というのだが、本を読むだけでほ駄目で、さらに観察と実験、つまり体験が必要なのだ)。

 こんな歴史的に明らかな事実まで否定しようとするのは、カトリックが、よく「ルーテルは結婚したかったから宗教改革をしようとしたのだ」と言って無知な信徒を洗脳しようとするのによく似ている。

 ライランド博士が、反対はしたが、あとでケアリを支援したとしても、「反対した」という事実は消えない。それは私も同じことだ。私も最初は海外宣教反対者だった。

 一九六〇年代の初め、小さな福音自由の教会から、横内澄江姉が主からの宣教師として召しを受け、立ち上がった。そのとき、福音自由教会の牧師(七人)は全員反対した。しかし、やがて横内姉を支援するようになった。だから、ライランド博士が海外宣教に対してカルビン主義の予定論的反対をしたが、後に支援者となったとしても、そんなことはよくあることで、だから初めから賛成していた、などと言う作り事、偽りは言ってはならない。それは、ポスト・ミレをやれば海外宣教をやるはずだ、などという神学を無理に証明しようとするからである。

 私が後になって、いかに海外宣教に熱心に打ち込んだとしても、横内姉の海外宣教に反対した、という歴史的事実は消えない。

 だから、ポスト・ミレをやれば世界宣教をするはずだ、などと言う迷信を早く捨てることである。前述したように、世界宣教は聖霊さまによるので、カルピニストだけが世界に出て行くのではない。アルメニアンも、バプテストも、ペンテコステも、カルビニストなど顔負けの世界宣教をやっている。

 それからD君は、(プレ・ミレが)スタンダード化したのはやっと二〇世紀になってからのことだ、などと軽々しいことを述べているが、世界中の六億のプロテスタントのうち、五億以上を占め、プロテスタント最大の勢力となっているペンテコステ教会は、二〇世紀に出現し、やっと今年、一〇〇年祭を開くほどに若い。最近出てきたから価値がない、などと考えていたら徹底して反省する必要がある。主は「新しい皮袋」を用い給う。古い正統的教会の中にホモの結婚式をやっているのがあるのだ。新しく出現し世界中に拡大しているペンチコステのほとんどはプレ・ミレである。

 だからと言って、私は「プレ・ミレだから世界中に拡大した」などという愚かなことは言わない。

聖霊さまによるのだ。

 D君は進化論の影響を受けた「有神進化」の立場なのかどうかはわからない。ノーコメントで沈黙しているので。しかし、この重要な問題にノーコメントと言うことは、一般のア・ミレ、ポスト・ミレのカルビニストと同じように、有神進化者とみられても仕方があ

るまい。

 前回明らかにしたように、「有神進化」は全く非望書的なのだ。

 創世記一章の神の創造は「六日間」なのか「長い期間」なのかは、「聖書は聖書で解釈する」という聖者貯釈の原則に従えば、出エジプト二〇章十一節、三一事一七節にある通り「主が六日のうちにすべてのものを造り」と明言されているので、「六日」でよいので

ある。

 ところが、進化論の影響から、どうしてもそれが信じられない。哀れである。これでは信徒以下ではないか。

 信徒でも聖書通りに信じている。だからD君は信徒から学ぶことだ。私が信徒から学んだように。

 肝心の「六日」の創造を信じないで、ポスト・ミレに合わせようとして聖句をあちこち引用して、「聖書は聖書で解釈するの原則に従えば・・・」などと、自分がいかにも聖書解釈の原則を重んじているかのような表現をする。

 もしその原則を適用しようとするなら、聖書の「ある所だけ」でなく「聖書全体」に適用しなければお話にならない。

もっとD君の主張の訂正をしたいが、紙面が尽きた。私は編集部に、もっと応答らしい応答はなかったのかと尋ねたが、D君のは「前からの続きなので」ということであった。D君は『ハーザー』編集部の公平な姿勢に、感謝すべきであろう。

 

 

 

 

 

01/06/09

 

 

 



ツイート