チャーチスクールとホームスクールが妥協してはならないこと

 

日本の場合、ホームスクーリングにかんして、稲葉師が非常にすぐれた、また尊い働きをなさっています。
これは、師の卓越した組織力、指導力の賜物と主の導きによるものであり、大変たのもしく感じております。

しかし、残念ながら、(これは、メシアニック・ジューについてもいえることですが、)神学的に、現在のキリスト教諸派がディスペンセーショナリズム、自由主義神学、危機神学などの影響を受けており、歴史的・正統的キリスト教からずれている面が多々見受けられるため、その運動の方向性に大きな狂いがあるということです。

ホームスクーリングが超教派に影響を与える以上仕方が無い面もあるのですが、しかし、やはり、神学的な間違いは致命的であり、運動の将来に大きな影を投げかけております。

まず、ホームスクーリング運動が将来にわたって成功するためには、次の点において妥協してはならないと思います。

(1)ヴァン・ティルの前提主義
日本のホームスクーリング運動においては、「神を恐れることは知識のはじめである」という標語を掲げているように、ヴァン・ティル的であります。それゆえ、大変すばらしい方向性であるとは思いますが、しかし、さらに自覚的にヴァン・ティルを学んで、ヴァン・ティルから一歩たりともずれないという強い決意というものがどうしても必要があります。

といいますのも、世界及び日本のキリスト教ミッションスクールが御言葉による救いと文化建設という意味において、力を失ったのは、世俗の学問を無批判に受け入れたからであります。

そのような無批判な受容の大きな原因は、文部省が学校設置において条件として出している様々な規制もしくは学校経営者の学歴優先主義等にあります。

つまり、「世界もしくは日本において認められた学問的に高い水準の大学の学位を持っている教授を入れないとだめ」とか、「うちの学校経営を成功させるためには、優秀な先生を呼ぼう」ということで、信仰中心ではなく、学歴中心の人選が行われています。

すると、信仰のない人が信仰のない学問を教えるわけですから、生徒たちは、「神を恐れることは知識のはじめ」という御言葉は御言葉として学びますが、実質的に、進化論やフロイト心理学、進化論的文化人類学、歴史学などによって無神論思想に犯されるようになります。

これは、生徒の心に大きな矛盾を背負わせることになります。

神の御言葉が一番と宗教の時間には教えられるが、実際に学校の授業になると、それを前提とした授業が行われない。

すると、生徒は、「なあんだ。あれは単なるお題目だったのか。」ということになり、いわゆる「聖俗二元論の使い分け」をやるようになります。

このようにして、教育の本来の目的である、「御国建設」が大きく後退するわけです。

このような学校やホームスクーリングが祝福されるはずがありません。

神様が我々に求めているのは、「神を恐れるという点において、首尾一貫した教育」であり、妥協は一切禁物です。

神を恐れるということは、具体的に言えば、「御言葉を疑わない」ということです。それゆえ、御言葉と矛盾するような学問を拒否しなければなりません。

私たちが今、このMLにおいて唱えている一番重要な点は、このことです。キリスト教が今後立つか倒れるかは、この一点にかかっていると言っても過言ではありません。

御言葉を前提として、諸学問を再構築し、「神は存在する」ということと「聖書は神の無謬の御言葉である」という点から出発し、今世界を支配している近代思想の「万物の尺度は人間である」を捨てて、「万物の尺度は聖書の神である」を採用し、それに頑固にこだわる必要があります。

学的業績だけを重視して、世俗の学界に受け入れられているからというだけで、信仰のない人々を受け入れ、彼らの思想を受け入れるならば、そこからなし崩し的にクリスチャン教育は崩壊します。

それゆえ、ゲイリー・ノースは、学校の教師の採用基準の第一は、健全な信仰に立つ健全な教会の健全な思想を持つ教会員であることだと述べています。

教会は、聖餐を許可する権限をもち、「御国の民」とそうでない人々を分ける権威を与えられている唯一の地上的権威なのですから、そのような健全な教会の権威に服従しているかどうかを最低の基準として設定すべきである、というのです。

もちろん、ここで言う「健全な」とは、ヴァン・ティルの前提主義「御言葉は前提であって、人間の思考はこれ以外のいかなるものからも出発すべきではない。」を受け入れているということが最小限含まれていなければならないというのは言うまでもありません。


(2)ポスト・ミレ

御言葉を前提とするというヴァン・ティル主義を受け入れるならば、当然のことながら、聖書の歴史観を受け入れなければなりません。
学校では、「キリストは王であり、キリストの御国は発展する。我々はこの御国建設のために召し出されている」という歴史観が教えられる必要があります。

このような歴史観に立たないと、子どもは、大きな目標を与えられず、自分の人生の目的を理解できません。
今日の教会は、この点において大きな失敗をしており、そのために、クリスチャンになっても、なぜ自分は生きているのか、いったい自分は何を地上で行わねばならないのか、方向づけがなされていません。

よく「サタン、サタン」というようなオカルト的なことは言うな、という人々がいますが、聖書は、はっきりと「サタンはライオンのように食いつくそうと徘徊している」と述べており、「隙を作るな」と教えています。

我々は、常にサタンの攻撃にさらされているのです。相手は人格を持つものである以上、こちらがうっかりしていると、パッと心の隙間から入られて、占領され、サタンの都合のよいように作り変えられてしまいます。

我々は、戦場にいるのです。そして、教育とは、神の覇権を拡大し、サタンの覇権を縮小するために存在するのであり、これ以外の「中立の」目的などありません。

聖書において「契約」とは、不可避的に「覇権主義的」です。つまり、契約とは、覇権を獲得するためにあります。

ディスペンセーショナリズムなど近代のキリスト教の異端思想は、キリスト教が覇権的宗教であることを否定し、クリスチャンをただ天国へのバスを待つ「隠遁者」に変えてしまいました。

キリスト教は、個人の内面を見つめたり、個人的聖化、個人的平安を達成することを最終目的とするものではなく、「地を従えよ」との命令を成就することを至高の使命とする宗教です。

神はこのように、「我々は戦争をしているのだ。我々はサタンの領土を分捕らねばならない」と理解する教えに変わることを我々に求めています。そして、このような教えに変わる人々を祝福し、その教会を祝福してくださいます。

近代になり、キリスト教に対してライバルとして現われた啓蒙思想、カント・ヘーゲル思想は、様々な秘密結社として世界の覇権を取ろうと、何世代にもわたって、着実に努力してきました。この背後に働いているのはサタンです。サタンは、自分にぬかづく者を利用して、富と政権を奪取することに成功してきました。

それに対して唯一対抗できる教会に対しては、異端の教えを吹き込んでクリスチャンを無力化することに努めてきました。

今、我々は、ここにおいて、サタンの陰謀を暴き、その野望を打ち砕こうとしているわけですから、大きな妨害と迫害があることを覚悟しなければなりません。

ホームスクーリング運動、チャーチスクール運動に対する攻撃は、世界において物理的段階を過ぎたといえるでしょう。実際、かつて、ホームスクーラーは、実際に刑務所に入れられました。しかし、現在、アメリカにおいても日本においても、公教育がにっちもさっちも行かない状況が生じて、「教育権は国家にではなく、家庭にある」と認められるようになっています。

しかし、サタンの常套手段ですが、彼は、物理的、肉体的迫害がだめなら、次の攻撃は、教えだと考えています。

教えをおかしくすれば、クリスチャンを無力化することができる、と。

ホームスクーリングがこれまで拡大してきたのは、再建主義の「覇権主義」に大きく影響されたからでした。しかし、サタンは、再建主義を否定することによって、「覇権主義」を捨てさせることを狙っています。

どのような戦いでも、自分のチームが、「敵なんていない」「戦う必要はない」と考えていれば負けるのは当然です。

我々は、「教育とはサタンに対する軍事訓練である」と認識しなければなりません。

ホームスクーリング運動が再建主義から離れるならば、その意義の大部分を失ってしまうのです。

それゆえ、私は、ディスペンセーショナリズムに立つボブジョーンズ大学の教科書を使うことに反対しているのです。

 

 

03/02/24

 

 

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