文明の転換点に立つ者の使命と責任

 

<ご質問>

早速のお答えありがとうございました。主に良い僕だと、いって頂けるように精進したいと思います。

さて、『人間は、信仰においても、肉体と同じように、鍛えることが大切です。』(「ミレニアムはクリスチャン自立支援サイトです」のお答えより)で、イグナチオ・ロヨラ著の『霊操』のことを思い出しました。

富井さまは、クリスチャン作家の作品を読むのには注意が必要だと、常々いわれておりますが、私もまったく同感でございます。そのため、彼らの作品(クリスチャン物)に関しては、これまで読んだことがございません。

そこで、お伺いしたい事がございます。先に挙げました『霊操』や、パスカルの『パンセ』(個人的にこの本が好きなので)等の、宗教や哲学本を読むことは、聖書的にキリスト教再建主義お立場から考えて、有益なのでしょうか、それとも、やはり注意が必要なのでしょうか。お教えください。

 

 

<お答え>

哲学や宗教の本は、その立っている前提が、「人間こそ万物の尺度である」ということにあるものがほとんどです。

彼らは、「神の啓示などなくても、人類はこのように発展しているし、現在科学や芸術や政治や文化を担っているのは、大多数ノンクリスチャンであり、彼らは聖書などなくても立派にやっている。なぜ聖書啓示に立たねばならないのだ。」と言っています。

しかし、実のところ、民主主義にしても、近代科学にしても、資本主義にしても、音楽や絵画などにしても、近代文明のほとんどすべては、キリスト教から生まれたものです。

カトリックは、教皇を中心とする、中央集権的な組織を唱え、実際の教義上では、教皇をキリストの上に置くことすらしています。そこで、近代になってプロテスタントが起き、聖書的キリスト教を唱え始め、個人の尊厳とイニシャチブの重要性を唱えてから、ヨーロッパはものすごい勢いで文明が進歩発展してきました。それまでラテン語にしか訳されず、宗教知識は聖職階級の独占であったのですが、ルターなど西欧各国の教職者たちが聖書をすべての人が読むことができるようにと自国語に翻訳し、また、その翻訳聖書を読むことができるようにと、学校制度を作りました。

しかし、聖書的キリスト教以外の文化圏においては、例えば、日本や中国や韓国など、家制度が中心で、個人が家族の権威の下に屈従しなければならなかったり、明治から昭和にかけて近代日本は、国家主義の中央集権体制によって、多くの人や自由が弾圧され、男性は徴兵によって戦争にとられ国の侵略戦争に利用されました。

聖書的キリスト教を捨てた西欧諸国も、帝国主義戦争をしかけ、植民地を作り、搾取を行い、人々を徴兵にとって戦争に投入しました。

よく誤解されるのですが、魔女裁判とか、科学者の弾圧を行ったのは、聖書を信じるクリスチャンではありません。彼らは、聖書が禁止している「異教徒や異端者の処刑、拷問、弾圧」をあえて行い、キリストの名を貶めました。

日本の学校や、巷で出まわっているキリスト教についての解説は、このような聖書に従わず自分の理性に頼ってことを行った人々の悪行をことさら取り上げるので、一面的な理解しか得られず、それゆえ、非常に歪んだ理解をしています。

さらに、近年のクリスチャン作家と呼ばれる人々は、聖書の教理について詳しい研究をしたわけでもないのに、有名だというだけで本を書き、講演などをしているために、非常に歪んだキリスト教が人々の思想を汚染しています。

私たちは、この世において、義務教育と高等教育を受けてかなり高いレベルの知識を持っています。職業については、それを専門に何十年もやっているわけですから、非常に詳しい知識を持っています。

しかし、ことキリスト教については、ほとんど正しい教育を受けたことがないというのが実情なのです。

それは、一つに、日本に良書が翻訳されていないということを挙げることができると思います。

ほとんどの歴史的に重要で、なおかつ健全な書物は、英語でしか読むことができません。各国の言葉はだいたい英語に翻訳されていることと、英語圏の人々がキリスト教の中心を占めているので、英語で書かれた書物は非常にたくさんありますが、日本語に訳された書物はほとんどありません。あるとすれば、カルヴァンのキリスト教綱要くらいです。

その他は、デカルトにしてもカントにしても、日本において圧倒的にノンクリスチャンが多いので、翻訳書や研究書が非常にたくさんあります。しかし、実際、近代文明の基礎を築いたカルヴァン主義のプロテスタントに関する書物がほとんどありません。

日本においては、悲劇的なことに、キリスト教学問の主流が、人間理性自立論者に占められてきたため、むしろ、バルトとかブルトマンなどの、異端の書物のほうが多いのです。マシュー・ヘンリーの注解書すら日本語には訳されていません。

さて、私たちは、私たちが受けてきた高度な教育にみあった書物を読み、高度なキリスト教理解を得なければなりません。なぜならば、この世の知識に対抗するためには、それだけ高度な教えが必要だからです。しかし、現在、聖書を神の言葉と信じる教会においては、「勉強すると不信仰になるよ。」というように、反知性主義が幅をきかせています。

それは、勉強好きな人々が読む本は、ほとんどすべて「近代神学」や「リベラリズム」に汚染されていたからです。

思想は、人間の行動に大きな影響を与えますので、それだけサタンが狙っている分野です。サタンは非聖書的な教えに我々を引きずりこもうとして虎視眈々とねらいをつけています。

宗教改革は、「人間の理性を神の啓示の上に絶対に置かない」と主張しましたが、それでも完璧ではありませんでした。その破れ目は、やがて啓蒙主義者によってクリスチャンを落とし入れる大きな陥穽となり、ついに、「神などいらない。人間だけでやっていける。」という思想が世界に蔓延したのです。

それは、あの時代において仕方がなかったといえば言えるのですが、しかし、私たちは、このような世俗が勝利した時代の悲惨な光景を目の当たりにしているのですから、先人の失敗から学んで、新たにそれを乗り越える教えを唱えなければなりません。

ヴァン・ティルは、近代主義とそれに汚染されたキリスト教リベラリズムやアルミニアニズムの弱点を指摘し、それが、キリスト教を破壊する結果となったことを鮮明に示してくれました。私たちは、再び、リベラリズムやアルミニアニズムに帰ることは許されません。クリスチャンが思想的に徹底して抵抗しなかったために、現代のキリスト教は、世俗の哲学に汚染された学問をうのみにし、ギリシヤやローマの学芸、近代思想家や、現在大学において教えられている(文化人類学や進化論、経済学、政治学、芸術、科学などの)非聖書的学説を無批判に受け入れています。そのため、せっかく多額の資金と多くの犠牲の上に建設された様々なミッションスクールまでも、ヒューマニズムによって汚染されてしまいました。「神様が存在し、聖書が神の御言葉である」という基盤に立つことを止めたため、それらは、「徳を積み、社会に貢献できる人になりましょう」というようなヒューマニズムに毛を生やした程度の教育しかできなくなっているのです。「私を除いて、父に至る方途はない」と宣言された唯一の道であるイエスを教えていないのです。

私たちは、正しい考え方にたち、我々の回りに溢れる偽りの思想や学問や制度や文化をすべてチェックし、それを聖書に基づいて変革していかなければなりません。そのためには、何が聖書的で、何が聖書的ではないかを峻別できる目を養う必要があると言えるでしょう。

現在、アメリカでは、このような聖書的キリスト教文化を建設するために多くの人々が活動しています。

日本においても、良書を翻訳する必要があります。しかし、実情は、様々な制約があって、この働きはなかなか進みません。

私は、もし諸条件が許すならば、これらの良書の翻訳のために全ての時間を捧げてもよいと考えています。幸い現在、インターネットがあるために、書物として出版する資金的余裕がなくても、公表することができます。

このまま、学校がますますサタンの弟子養成所になり、不品行と堕落とドラッグが蔓延するのを放置するならば、日本の未来はないと言ってよいでしょう。聖書の規準がなければ、ではいったいこの世に何かの規準が残されているのでしょうか。

教育勅語を復活させるわけにもいかない。ヒューマニズムでは、「人に迷惑をかけないこと」というレベルの倫理しか教えることができません。このままでは文明の崩壊です。ヒューマニズムは、もうすでにカードを出し尽くしてしまいました。

人々は、オウム事件以来、宗教に対してもアレルギーを覚えている。文化や文明に対して明確な理想をかかげることができるのは、聖書的キリスト教以外にはありません。

この歴史的大転換点に立つ私たちに与えられた使命と責任は非常に大きいのです。この再建運動にご賛同くだされば幸いです。

 

02/02/16

 

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