神は堕落した人間を創造されたのではない

 

<ご質問>

そうなんです。それが疑問の核心です。

悪にはならないにしろ、相反する物を同時に持つことによって、

人格ではなくなってしまいます。

 

以前、私は神は「I」と「do」しか持てない。

したがって、確率こそが神である。と考えた事がありましたが、

神に意志が無いのは、聖書に反しますよね。

 

<お答え>

 そうですね。

 自分のうちに相反するものが存在するならば、それは矛盾の根源者です。

 そのような矛盾の根源者が創造したものが、合理的であるはずはありませんし、まして正義であるはずもないですから、法律を作ったり、科学的活動を行ったりする理論的土台は、人間のうちから奪われます。

 

 つまり、「矛盾者が創造した世界なのだから、そこにおいて物理・化学的法則が合理的に働いていると期待することはできない」ということになりますし、「矛盾者が創造した世界なのだから、正義が存在し、その正義に基づいて犯罪者を処罰することにいかなる意味もない」と結論するのが当然だ、ということになってしまいます。

 

 科学にしろ、社会建設にしろ、思想にしろ、物事の起源と切り離して考えることは原理的にできないのですから、汎神論を前提とした場合、科学や社会建設や、思想は成立しません。

 

 汎神論を前提とした場合、人間は虚無の絶望に陥るしかありません。

 

<ご質問>

 

ただ、これは、もっと抽象的な考え方をすると、解らなくなるんですよ。

ある粘土細工の形状が、人の中に「その形状を志向する意志」という要素として存在していない場合、それは、作った、とは言えないです。

指先に粘土がある事に気付かず、ただ手を動かしていたら、人の思いもつかない、変な形になった、というのは、人が「作った」とは言わず、形が「出来た」と表現されます。

作ろうとしたときには、出来上がる前にすでに、人の中にはそれが存在しているのです。人の意志が介在しない創作(?)は、指先に粘土がある事に「気付かない」ことによります。もし神も、何かに「気付かなかった」のだとしたら、それは明らかに欠落です。

 

<お答え>

 まずおさえておいていただきたいことは、

 神が創造されたアダムは初め「堕落した人間」ではなかったということです。

 アダムは完璧な被造物だったのです。

 この「完璧」とは、「堕落する可能性をまるで残さない」という意味ではなく、「堕落する可能性を持つが完璧」という意味です。

 

 アダムが堕落してから生まれた我々人類は、みな堕落の性質を受け継いでいるので、生まれながらに不可避的に罪を犯すものですが、最初のアダムの状態は、そうではありませんでした。

 

 きちんと運転したら事故を起こすはずのない車を作ったメーカーが、滅茶苦茶な運転によって起った重大事故の責任を負う必要がないのと同じように、神がアダムの堕落の責任を取る必要はありません。

 

 堕落した責任は人間にあります。神に堕落の責任はありません。

 

 もしあるとすると、神は人間を裁くことができなくなります。

 となると、この世界――悪に満ちた世界――の存在そのものが神の責任になり、神が裁かれなければならないということになるのです。

 

 神が裁かれるべき存在であるならば、「神は絶対的な基準者である」という命題と矛盾します。

 それゆえ、キリスト教は土台から崩壊します。

 キリスト教が土台から崩壊するだけではなく、すでに述べたように、我々人間や世界の存在に意味はまるでなくなり、虚無に至るのです。

 人生も歴史も科学も芸術もあらゆるものは無意味になります。

 

<ご質問>

これは、自由意志といっても「神が定めた範囲内での」自由でしかありえないたろう、という理由でもあります。

 

世界が神の創作であるならば、たとえ抽象的な精神世界でさえ、神の創作なのではないのですか?

 

<お答え>

 抽象的な精神世界も神の創造です。

 精神世界も、すべて完璧に作られたのです。

 「神ははじめに天…を造られた。…見よ。それは非常によかった。」

 しかし、堕落が起こりました。

 

 サタンは人間を騙して人間をも堕落に巻き込み、全世界が堕落しました。

 まず堕落したのは、サタンの精神であり、次に人間の精神です。

 神は、人間の堕落、自由意志に垣根を設けました。

 それゆえ、人間はサタンのように徹底して堕落したわけではありません。

 そこには常に回復の余地があります。

 悔い改めてキリストを信じることによって、私たちの責任はすべてキリストの十字架において御破算になります。神に対する負債はゼロです。

 

 人間は、神に対して罪を悔い改めることによって、原初のアダムの状態に「法的に」復帰することができます。つまり、もはや裁かれない真っ白な状態になります。これは、文字通り「実際的に」復帰したというのではなく、あくまでもキリストを信じたことによって、罪がキリストにおいて処罰されたので、法的に復帰したという意味です。例えば、南米の人々が日本の国籍を取ったとしても、そのまま日本人にすぐになれるわけではありません。日本語もヘタですし、日本の風習に慣れていません。しかし、彼は紛れもない日本人なのです。彼は「実際的な」日本人ではないですが、「法的な」日本人です。それと同じように、キリストを信じた人々も、「実際的な」無罪者ではなく、「法的な」無罪者です。

 

 

 

 



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