プレ・ミレの聖書解釈の矛盾

 

 奥山師だけではないでしょうが、プレ・ミレの人々は、一つの個所から結論を強引に導き出そうとする傾向が顕著です。その結論を正当化する手段が、文字通りの解釈という非正統的な解釈方法です。

 

 ディスペンセーショナリズムの7つの時代区分と同じように、この「字義的解釈」も、根拠が薄弱であり、ある時は字義的に、ある時は比喩的に使い分けているのです。そして、その使い分けの根拠を質しても答えてくれません。7つの時代区分と同じです(律法の時代と恵みの時代を区分できる証拠などどこにもないのです)。

 

 かつて私が神学生だった頃の教会の牧師は、「プレ・ミレのこのような解釈は、シロウトの解釈法なんです。」と言っていました。たしかに、そのとおりです。

 

 「皆さん、見てください!コソボ紛争、ポルポトやナチスの大虐殺。このような事件を見て、どうして『サタンは縛られている』なんて考えられますか?」と言われれば、一般の日本人は納得してしまうでしょう。

 

 しかし、聖書は、21世紀に生きている一般の日本人のために書かれた書物ではないから、どんなに日本人が納得しても、我々には説得力はまるでない。

 

 聖書は、あくまでも紀元1世紀に書かれた古典であり、古典を今日の常識で読むことはできません。

 

 私は、内田和彦先生から「聖書は、直接の読者が読んで分からないことは書いていない」という聖書解釈の原則を教わりました。直接の読者である紀元1世紀の地中海沿岸諸国に住むクリスチャンが、666の数字をヨハネから告げられて、「ああ、これはロスチャイルドだ!」と分かるわけがありません。紀元1世紀の地中海沿岸諸国はローマ帝国の支配下に入っていたのですから、666と聞けば、ローマ皇帝以外考えられないのは当然なのです。

 

 彼らが理解できもしないヒトラーだとかロスチャイルドだとか、これから現われるヨーロッパ共同体のトップだとかにこの数字を当てはめて、「終末は近い」と叫ぶのは間違いです。

 

 

 

 

 



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