ハーザー誌8月号に載る決定版

 

D君の名前が明らかになったが、私が予想していた富井師ではなかったので、少し失望した、富井健師には申し訳ないが。私が予想していた富井師は、現在神戸改革派神学校で、旧約学を教えている筈だが、よくヘブル語を学んでいる人で、神学校では私の後輩になり、謙遜な好人物である。富井健師について、編集部にどんな人か尋ねたら「若い人」と言うので、D君とする。>

 

 「えっ? 今ごろ、議論の相手について尋ねた?」

 七月号の奥山氏の反論を読んで、このように唖然としたのは私だけではなかったようである。四月号から続いた議論の中で、氏は今の今まで議論の相手を正確に知ろうとしてこなかったことを知って多くの兄弟から「相手を侮蔑している。まじめに議論していない。ふざけている。」という指摘を耳にした。

 どうりでこれまでの反論が的外れなわけである。改革派教会とは縁もゆかりもない私をつかまえて、延々と改革派批判を行うので、批判の大部分はわたしにとって意味がなかった。「改革派がその神学のゆえに伝道してこなかった」という説に対して六月号においてわたしが反論したのは、読者が奥山氏によって歴史的な事実について誤った知識を持つのが忍びなかったからである。私たちクリスチャン、とくに教職者として召された人々は神の言葉を預かっている身である。だから、語る言葉には細心の注意を払わねばならない。もし重要なテーマについて、自分の意見を発表するならば、きちんと文献を参照し、場合によっては出典を明らかにして、正確な知識を提供するように最善の努力を傾けるべきである。なぜならば、その言葉に影響されて、躓きを与えてしまう可能性があるからである。

  例えば、氏は次のように述べた。

 「周知のごとく、宗教改革者のルーテルも、カルビンも…、千年王国論をカトリックと共に切って捨ててしまった。…カルビンは、かの有名な『キリスト教綱要』の中で、『あまりにもたわいがないので、論駁の必要も、価値もないものである』と言ったことも、カルビニストの神学者の中ではよく知られている。」

 このカルヴァンの引用に注目していただきたい。氏は、カルヴァンは千年王国論を否定したと述べておられるが、しかし、カルヴァンのもとの文は、千年王国論そのものを否定したのではなく、氏が頑強に主張しておられるプレ・ミレを否定する文章なのだ。

 「すぐに、キリストの支配を千年間に限定する千年王国論者が現われた。彼らの作り話は、あまりにも幼稚すぎて反論する値もないのである」(キリスト教綱要第三巻二五・5)。

 氏が故意であるか、それともうっかりであるかは分からないが、氏の引用文には「キリストの支配を千年間に限定する」が欠けている。

 また、ルターが千年王国論を「異端」と述べたと言っておられるが、出典が明記されていないので何とも言えない。しかし、少なくともルター派が信条として否定したのは、千年王国説そのものではなく、再洗礼派が信じていたプレ・ミレであることは衆目が認める事実である。

 一五三〇年、ルター派教会はアウグスブルク信仰告白を採用し、その第一七条ではっきりとプレ・ミレを否定し、異端としている。「死人の復活の前に善人が世界の王国を占領し、悪人はどこにおいても抑圧されるだろうというユダヤ人の意見をばらまく人々」が非難されている。

 また、人や立場を批判しようとするならば、その相手についてしっかりとした知識を持ち、その判断を証明するための言動を証拠として挙げることができなければならないのはいわば常識である。単なる印象だけで、人や立場を批評するならば、その人について、読者に対して間違った印象を与えてしまうからである。それは、ことによれば中傷になり、相手の社会的な信用を失墜させることにもなりかねない。

 しかし、奥山氏の文章の大半を占めるのは、自分で勝手に想像した「ポスト・ミレ像」であり、「改革派像」であり、「D君像」である。例えば、わたしについて、氏は次のように述べている。

D君の「ポスト・ミレと世界宣教」の独断と偏見にはあきれ果てた。読む本が偏っているので、別の種類の神学書も読みなさい、と前回忠告したことを忘れないように。「ポスト・ミレだから海外宣教をした」という誤った考えを、今日限り忘れるように。>

 私の読む本が偏っているかどうか、どうして分かるのだろうか。氏はわたしの読書についてすべて知っているのだろうか。私はバプテスト派で洗礼を受け、大学時代からずっと福音派で育ったものだ。そして、二〇年もの間プレ・ミレを信じ、強力にそれを述べ伝えていたものだ。チェイファーや、ウォルヴァード、ルネ・パーシュ、エーリヒ・ザウアー、ヘンリー・シーセンなど、プレ・ミレの本をむさぼるように読み、ハル・リンゼイの『地球最後の日』(いのちのことば社)を伝道における座右の書として用い、学生時代の友人からはプレ・ミレにとりつかれた者とのあだ名をもらうほどの人間だった。

 それゆえ、議論においては、あくまでも、そこに現われた相手の言葉を扱わねばならない。相手の背景にまで言及するだけの知識を持っていないのであれば、そういうあやふやな知識の言葉は控えるべきである。議論が混乱するし、相手を中傷する危険があるからである(主にある兄弟を中傷することは絶対に犯してならない罪である)。氏は、初代の教父たちがプレ・ミレを信じていたことについて、おそらく私が知らないのだろうというような憶測を言われたが、これは千年王国説の議論において基礎的な知識である。どんな千年王国説に関する入門的文献を読んでも、イレナエウスやパピアスのプレ・ミレくらいは書いてある。そして、彼らの意見はその後、教会のスタンダードにはならなかったし、信条の中にも取り入れられることはなく、紀元四〜五世紀にアウグスチヌスによって完全に葬り去られたことも少し調べればすぐに得られる知識である。論拠も示さずに、印象とか感覚だけで軽々に対論相手について言及することは、相手について読者に誤った判断を与えることになる恐れがあるため、厳に控えなければならない。

 それから、さらに気をつけなければならないことだが、自分が数カ月も他人と誤解したままであった議論の相手に対して、単なる憶測だけで、「忠告する」だとか「別の種類の神学書も読みなさい」「…という誤った考えを、今日限り忘れるように」「D君はそこまで堕落してはならない」といった人を上から見下すような侮蔑的な言葉使いは慎むべきである。いや、たとえ相手に対して充分な知識があったとしても、このような尊大な物言いはできないはずである。

 「ポスト・ミレと世界宣教」において、私は、どこにも「ポスト・ミレだから海外宣教をした」と述べていない。文章は、「カルヴァン派がその神学のゆえに伝道してこなかったなどということがありえないのは、歴史を見れば一目瞭然です。」という前置きからはじまっており、それを説明するために、改革派の宣教の歴史を取り上げ、その中でもポスト・ミレの役割の重要性を述べたまでである。プレ・ミレやア・ミレは世界宣教しないとは一言も述べていない。

 また、相手の立場についても、しっかりとした批評をしなければならない。氏は、パウロは悪霊の存在を否定していたことを証明しようとしたウェストミンスター神学校で修士号取得した人物の例を挙げているが、こんな極端な人物をカルヴァン主義者の例として挙げるべきではない。なぜならば、カルヴァン主義者全体は悪霊の存在を認めているからである。もし、カルヴァン主義者が悪霊の存在を否定しているということを公的な宣言として出していたり、また、カルヴァン主義に立つ著書の大多数が悪霊を否定しているならば別である。しかし、そのような事実はない。だから、相手の立場を批判するにしても、間違った印象を与えるようなやり方を避けるべきである。

 五月号の氏の論文に対する応答がなかったことについて氏は非難されているが、これはまったくナンセンスである。なぜならば、氏の応答は、二カ月にわたる長文だったからである。自分の論文が二カ月にわたる長いものであるならば、それに対する応答も、二カ月にわたると期待しても当然である。しかし、氏は、六月号で、この四月、五月の二カ月分の応答を期待し、私が五月分に答えていないことを見て、「おそらく答えられなかったからだろう」と言う。私が六月号で応答したのは、四月号の氏の論文に対するものだ。この文章は、すでに五月号に間に合うようにハーザー誌に提出していたのであるが、奥山氏の論文が字数制限を超過したために五月号にまで及び、その結果私の文章はカットされた。六月号の締めきりが近づく頃に五月号がすり上がって送られてきたが、それに対する応答を六月号に盛り込むことはスペースと時間の関係で不可能であったため(制限字数ぎりぎりだった)、五月号への応答は翌月号に回したのである(五月号については翌月に応答する旨を掲載してくれるようにハーザー誌に依頼したが、すでにすり上がった後だったので断られた。また、五月号に対する応答については、五月十二日に掲載の申し出をしたがマルコーシュから返事がなかったので、七月号には載らなかった)。しかし、奥山氏は早計にも、「これは応答ではない。前の私の論文には、ポスト・ミレならどうしても応答しなければならない重要なポイントがあるのに、全くノーコメントで…」と述べて、六月号一回で氏の四月号五月号の膨大な量の文章に対する応答をしないのは私の責任であると言う。しかし、このような混乱の原因は、もともと、奥山氏が、わたしの文章に比較して不釣合いな量の文章を書いて、対論のペースとバランスを乱したことに原因がある。もし、「きちんと応対せよ」と言うならば、まず、自分が相手に対等な機会を与えてからの話である。四月号に私に割り当てられていたスペースが三ページに対して、奥山氏が書いたのは、なんと十三ページ(四月号七ページと五月号八ページ)である。これに対して、どうして六月号において私に割り当てられた五ページで反論を書けと言うのか。これは、相手の手足を縛って戦えないようにした上で「なぜ戦わないのか」と言っているのも同然であろう。また、もしこちらが「応答しません」と述べたり、数号にわたって何の応答もしなかったのであれば、「なぜ答えないのか?」と非難することもできるだろうが、私は別に「答えません」と言ったわけでも、また、数号にわたって奥山氏の論文を無視しつづけたわけでもない。相手がどのようなタイミングで応答するか、たかだか一号ぐらいの遅れであのような言い方をすべきではないだろう。

文化命令については、七月号「文化命令と天皇制」において私の意見を述べておいたので参照していただきたい。また、進化論については、四月号においてすでに述べているように、私は聖書に基づいて、すべてのことを捉えようとする前提主義に立っており、文字通りの六日創造説を唱えている。現代のポスト・ミレの指導者の大半も同じである。ウェストミンスター神学校の創設者の中には、有神進化論を唱える人々もいたが、わたしは彼らには賛同しない。

六月号においてポスト・ミレが一七世紀にすでにユダヤ人の帰還と建国について預言をしていたことを文献を明らかにして示したにもかかわらず(ピューリタンたちはユダヤ人の回復を強烈に信じていたのである)、それを無視して、「ユダヤ国家預言の成就においてプレ・ミレはポスト・ミレやア・ミレに勝利した」などと繰り返されたのは残念であった。

 氏は、若い牧師は神学の勉強よりも救霊に励むべきだ、と言われるが、救霊と神学の研究とは対立概念ではないし、また、主は、申命記二九章二九節において「隠されていることは、私たちの神、主のものだ。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみ教えのすべての言葉を行うためである。」と述べて、私たちに啓示された事柄については、私たちがそれを知り、調べる責任があると言われている。今日、神学など不要だ、救霊が大切だ、という流行の考えは、けっして神の御心ではないから注意が必要である。なぜならば、聖書が主の御言葉であるならば、それをより深く広く知ることは神が望んでおられることだからである。ギリシャ語やへブル語を学ぶのは、何も人を騙したり、学問によって人を煙にまくためではない。神の御言葉を愛して、神によりよくお仕えしたいからである。聖書についてわずかな知識しかなければ、その人の奉仕が誤る危険性は大きくなる。一生懸命伝道していても、間違った教えを信じていたら何にもならない。

 とくに、すでに述べたように、プレ・ミレのように、教会史の中においてほとんどの時期において異端とか異説とされてきた教えについては、聖書から入念にチェックしなければならない。それに対して「正統派」が何するものぞ、というような、正統派の立場を軽視するような発言を氏がされていたが、これは非常にゆゆしき問題である。なぜならば、正統派はだてに正統派と呼ばれているわけではないからである。自分が信じているプレ・ミレを絶対視するあまりに、カルヴァンや改革主義、さらに文化命令すらも否定するようになれば、異端の烙印を押されてもおかしくはない。

 マルコーシュから、今回でこの特集は終わるように言われた。また、私個人としても、奥山氏とはまともな議論が成立しないことがわかったので、これ以上の対論は無益と判断する。そして、読者の方々には、奥山氏のフィルターを通してではなく、裸眼でポスト・ミレについて学んでいただきたいと思う。また、奥山氏の文章については、そのすべてについて、詳細な回答をする予定である。ホームページhttp://www.path.ne.jp/millnm/ )上に載せておくので参照していただきたい。

本誌の笹井氏が開始された天皇制に関する尊い運動も、日本という国がキリストの弟子となることを保証するポスト・ミレの歴史観と一体化することによって、成功に導かれることを信ずるものだ。

最後に著名なポスト・ミレ論者で、大説教家チャールズ・ハッドン・スポルジョンの言葉を載せて結論としたい。

「『世界の諸国をキリストの御国と変えるなど、夢遊病者のたわごとに過ぎぬ。』現在の成長のペースからすれば、このような言葉にだれもがうなずくことだろう。事実、教会の多くの信者は、キリストが再臨されない限り、御国の到来などあり得ないと諦めを決め込んでいる。安逸を好むわれわれの耳に、この言葉は心地よく響く。それゆえ、再臨の教理は、今日大変な人気を博している。しかし、私は、王なるキリストが世界を統治され、偶像がことごとく滅ぼされ、かつて世界をくつがえした同じ力が、これからも世界を変え続けるだろうと確信している。聖霊は、『神は世界を変えることができない』と主張する者たちの傲慢をお許しにならない。彼は、神の聖なる御名に加えられたこの冒涜を黙って見過ごすことがおできにならないのだ。」 

 

 

 



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