後千年王国説批判に答える

 

 

 師は、ポスト・ミレは、第2ペテロ3・10のような破局的終末を教えないと言われるが、19世紀の代表的後千年王国論神学者チャールズ・ホッジは、この個所について、次のように述べている。「これらの聖句は、政治的・道徳的な大変動の預言であると考えてはならない。そのうちのいくつかはそう受け取れるかもしれないが、他は文字通り受け取らねばならない。とくに、第2ペテロ3章6-13節は字義的解釈が必要である。ここにおいて、使徒ペテロは、洪水による世界の滅亡と、将来起こるはずの火によるそれとを対比している。」(Systematic Theology, vol.III, pp.851-852) このほかにも破局的終末と最終審判について証言する人々は数え切れないくらいいる。

 

 そもそも、一体、正統的な信仰を持つ者で、世界に対する神の最終審判、万物の更新を信じない者がいるだろうか。もしT師が、「天地は滅びます」というイエスの御言葉を否定し、旧世界の滅亡と、新天新地の到来を否定する立場を取っているならば、それは「意見の相違」レベルの問題ではなく、戒規に関わる問題であろう。事実、「紀元70年の神殿崩壊とイスラエルの滅亡において終末の破局的出来事は終わり、キリストはこの時再臨したので、もはやこれから後キリストの再臨や聖徒の復活はない」と主張するフル・プレテリストと呼ばれる人々は、ポスト・ミレの間でも異端と呼ばれている。このような極端な立場の終末論と歴史的正統的信仰に立つポスト・ミレニアリズムとを混同することはできない。

 

 師は、ポスト・ミレを「19世紀に流行したヒューマニズムと新しく台頭してきた進化論の影響である」(*)と述べておられるが、ポスト・ミレの歴史はヒューマニズムや進化論の歴史よりはるかに長い。ポスト・ミレの標準教理を作ったのは、アウグスチヌス(4−5世紀)であり、これは千年間もの間教会を支配した。また、現代を除けば、ポスト・ミレを支持した最大の勢力は、アメリカ入植時代のピューリタンたちであった。

 

 ポスト・ミレが「歴史は発展する」と主張するのは、進化のゆえではなく、神の力を信じるからである。キリストは、「出て行って、すべての国民を弟子とせよ。」(マタイ28・19)と言われた。すべての国民を弟子とし、彼らにバプテスマを授け、キリストが命じた教えをすべて守るように教えよ、と神が命じられたのだから、それはできる、と考える。神ができるといっておられるのに、できませんということは不信仰である。「わたしは天においても地においても一切の権威が与えられています。」(同18)とキリストが言われ、また、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。」(同20)と約束してくださった以上、クリスチャンが全世界の諸国民をキリストの弟子とし、彼らにキリストの戒めを守るように導くことができないはずはない、と考える。「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地上でも行われるように」(マタイ6・10)祈れと命じられた以上、それが実現しないはずはないと信じる。コロンブスは「全地は王なるキリストの主権の下に置かれなければならない」とのイザヤの預言を信じて航海を進めた。世々の伝道者たちは、同じような希望を持って世界宣教に乗り出した。インドの宣教師ウィリアム・ケアリは、ポスト・ミレの信仰を表明して次のように言った。「サタンの領土が完全になくなるまで、キリストの支配は拡大されねばならない。」

 

 神の力を信じ、神を歴史の主と信じるならば、プレ・ミレの信仰が間違いであることに気づくだろう。「サタンの陰謀は最終的に勝利し、教会がどんなに努力しても最後は反キリストによる迫害に終わる。」とする悲観的なストーリーは、サタンの創作である(**)。聖書は、その反対のことを教えているからである。

 

 「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4・7)

 

 (*) ポスト・ミレが進化論やヒューマニズムの影響を受けた思想であるという意見が形成されるようになったのは、ポスト・ミレの聖書解釈に対する批評というよりも、ラインホルト・ニーバーの歴史的シニシズムの影響が大きい。ヒューマニズムの影響を受けていると非難する人々が、ヒューマニズムから知恵を得ているという皮肉はポスト・ミレ批判の中に普遍的に見られる現象である。彼らは、ここ百年の間において起こった歴史の退行を示すような悲惨な出来事(二度の世界大戦、環境破壊等)を見て、「これでも歴史は進歩していると思えますか?ポスト・ミレはあまりにも楽観的ではないですか?」と尋ねるのが常である。彼らは、毒麦だけではなく良い麦も刈り取られて火の中に投げ込まれるだろうと主張している。ポスト・ミレは、人間の自律的な理性によって作られたバベルの塔が崩壊するからといって、神の国が崩壊するわけではなく、むしろ、それによって地は清められ、神の国はますます拡大し、鳥が巣を作るほど大きくなるだろうと主張している。

 

 そもそも、ヴァン・ティル(彼自身はア・ミレである)以降、ポスト・ミレを主張している人々の大多数は、彼の前提主義に立っているのであり、ヒューマニズムとの対決を徹底して追求する人々である。現代のポスト・ミレは、師が言われる「19世紀に流行したヒューマニズム」(恐らくヘーゲルの弁証法的歴史発展説)や「進化論」(その非神話化・非ロマン主義化の切り札として登場した実証主義的歴史発展説)と真っ向から対抗している。たしかに、今世紀前半のポスト・ミレの人々の中にキリスト教進化論を受け入れた人々があったことは事実である。プリンストン神学校(ウォーフィールド)や、そこから出てウェストミンスター神学校を作ったポスト・ミレの人々(メイチェン、アリスなど)が進化論に対して妥協的な部分(6日創造説を明確に信じないという意味で)があったことは否めない。メイチェンは次のように述べている。「聖書の第1章にある6日間とは1日24時間の6日間を意味していたと受け取る必要はなく、非常に長い期間を意味すると考えることができる。」(The Christian View of Man (1937; Eerdmans reprint; Grand Rapids, 1947), p. 131.) しかし、6日創造説の否定は、世界の漸進的形成、それに伴なうアダムの直接創造の否定に不可避的につながるため、現在ポスト・ミレの趨勢は進化論の完全否定の立場に進みつつあると言ってよい。例えば、現在ポスト・ミレの指導的な立場にいるR・J ラッシュドゥーニーやゲイリー・ノースは、文字通りの6日創造説を主張している。

 

(**)再臨のキリストがサタンを滅ぼすのだから悲観主義ではないといわれるかもしれないが、あくまでも神が世界の支配を命じたのは「アダム」にであり(創世記1・28)、カナンを征服せよと命じたのは「イスラエル」にであり(ヨシュア1章)、イエスが世界の弟子化を命じたのは「弟子たち」にである(マタイ28・19−20)。聖書は一貫して、地を従える仕事は人間に与えられていると述べているのであり、それを実現できないとつぶやく者はその使命を取り上げられると警告している。

 

 

 

 

 



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