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神の聖定について

 

<ご質問>

いつもたいへんありがとうございます。

以前、「各人の中に悔い改めと、キリストへの信仰を聖霊が生みだす」と言われるが、一方で「信仰は自由意志による」とも言われる。しかし、信仰を聖霊が生み出すということは、神が人間の自由意志をコントロールするということだから、矛盾ではないか?

という質問を某掲示板でしたことがあります。それに対して改革派の方が次のように回答してくださりました。

@罪の状態に堕落している人間は、「救いを伴うどのような霊的善」に対しても意志のすべての能力を失っている。つまり、生まれながらの人間はその罪によって霊的な事柄に対してまったく死んでいる」。だから「自らを回心させるとか、回心の方に向かって備えることは自力ではできない」わけである。

Aこういう意味で、生まれながらの人間は自由意志をもともと失っている。といっても、自分で考え、欲求し、意志し、自分のなすことを選択する、という自然的自由意志は持っているし、@はそれを否定しない。

@は「人間が自ら回心することが出来ない霊的死の状態である」それに関して自由意志は持っていないと言っている。その状態から神は、有効召命によって人間を回心させ罪の奴隷状態から解放し、神の恵みによって「霊的な善を自由に意志し、また行為することができるようにされる」わけである。有効召命は聖霊の働きである。神が人間の自由意志をコントロールするのではなく、逆に「霊的な善への自由意志」を与えてくださる。

しかし、ぼくは神から「霊的な自由意志」を与えられなければ、人間は罪の状態に堕落したままであるという説明には次のような問題点があるように思うのです。

聖書を読むと、神が、人間が自分から離れて堕落していることを悲しんだり、時には怒って罰を与えたりします。しかし、人間は回心することができないのだから、悲しんだり怒ったりするよりも、聖霊を働かせて全人類を回心させたほうが御心にかなうということになってしまいます。tomi先生は、いかが思われますか?

 

 

<お答え>

 いつも大変興味深いご質問をありがとうございます。

 人間は、神の栄光のために創造されました。

 神は、選びによって、ある人を救い、彼に恵みを注ぐことによって、神の愛と優しさを現そうとされました。

 また、選びによって、ある人を救わず、彼の罪の性質が発現するのにまかせ、その邪悪や不義を裁くことによって、神の義と厳しさを現そうとされました。

 

 神は、ユダを救うことがおできになりましたが、ユダは「神を裏切ることによって、キリストの十字架の贖いの計画を実行するために召された人」であったので、彼の堕落を放置されました。

 神は、ペテロを「あわれみの器」として造られたので、彼がイエスを裏切ったときにも、彼を見捨てず、彼が回復するようにとイエスは神に祈りました。

 エジプトの王パロは、悔い改めて立ちかえり、イスラエル人を解放する役割を果たすために召された人ではなく、頑固になり、イスラエルを解放せず、神の刑罰を受けるために召された人だったので、神は、彼の罪の性質を抑制せず、反逆するにまかせました。

 モーセは、悔い改めて立ちかえり、イスラエルを解放する役割を果たすために召された人だったので、神は、彼に従順な心を与え、魂を砕き、へりくだりを教えられました。モーセは、神にしたがい、御国のために大きな働きをしました。

 神は、ヤコブを「あわれみの器」として創造され、彼をイスラエル12部族の父祖とすることに決定されていたので、彼を訓練し、神に忠実な者とされました。

 しかし、神は、エサウを「み怒りの器」として創造され、彼が長子の権利を一杯のごちそうと引き換えに売り渡すことにストップをかけられませんでした。彼は、自分の罪の性質を発現させ、その結果、救いの資格を失ってしまいました。

 人間の側から見れば、全員が救いにあずかって、幸福を享受すればよいのに、と思いますが、そもそも人間は自分のために生まれてきたわけではなく、(好むと好まざるとにかかわらず)神の計画を実現させるために生み出されてきた存在なので、神の計画どおりに生きる以外にはないのです。

 それゆえ、「あわれみの器」として創造された人々は、神の警告を聞いて、悔い改め立ちかえりますが、「み怒りの器」として創造された人々は、神の警告を聞いても、悔い改めて立ちかえることなく、ただ悪から悪へと進むように定められているのです。

 神は、御自身の愛と義の性質の両方を歴史の中において啓示しようと意図されたので、ある者を「あわれみを受ける者」として選び、ある者を「み怒りを受ける者」として選ばれたのです。

 「神は悪者さえも、み怒りの日のために創造された。」(箴言)

 

 「警告を発し、それに従わなかったことに怒り、嘆く神が、あらかじめその者を『不従順』に閉じ込めることを定めておられた」ということが果たしてあるだろうか、と訝る人がいるかもしれません。

 しかし、神は、全知全能のお方なのです。

 「あらゆることが神の決定によって起こっている、神の意志によらずに起こることが一つもない」という絶対者であるならば、不従順に驚いたり狼狽することはありません。

 「ああ、ユダよ。おまえがイエスを裏切ったので、イエスは殺されてしまった。」と神は嘆かれたのでしょうか。

 そうではありません。ユダがイエスを裏切ることは神の計画によって決定されたことだったのです。

神は、警告を聞いて神に服従する者も、服従しない者も、どちらも創造されました。

  それは、服従する者を通して神の愛と憐れみを啓示するためであり、服従しない者を通して神の義と裁きを啓示するためでした。

 

 

 

 



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