これまでの経緯

 

 今から14年前に神学生だったころ、アメリカフロリダ州の長老教会において、2冊の分厚い本と出会ったことから私のミニストリーは始まりました。

 それは、Institutes of Biblical Law と Law and Society でした。

 どちらもR・J ラッシュドゥーニーの著書で、アメリカ再建主義の主要著作でした。

 わたしは、小さな頃から、どうして旧約聖書の律法が教会において取り上げられることがないのか不思議に思っていました。様々な律法が書かれてあるのに、それがあたかも神の言葉ではないかのように、無視されているのは何故だろう、と思っていました。

 大学時代にヴァン・ティルの著作と出会い、「現代の世界は、そもそもキリスト教によって成立したにもかかわらず、次第にキリスト教から離れ、法律や様々な問題を聖書抜きで考えるようになっているが、それは間違いである」ということを教えられていました。そこで、神の法を研究して、それを基に社会制度を改革することが必要ではないかと思い、一人で研究を開始しました。しかし、旧約聖書の注解書を読んでも、一字一句を解釈しているだけで、律法の背後に流れている大きな思想つまり世界観について解説している書物を見付けることができませんでした。

 大学を卒業して、まだ献身への明確な召しを感じることができず、貿易会社に勤務しました。ソ連に駐在していた間に、神を真っ向から否定し、人間の知恵だけで国家を建設する近代主義の純粋型である共産主義の政治がどのようなものであるかを実際に目で見ることができました。 

 世界は神の創造であるから、社会の建設において神を無視することはできない、もし無視してしまうならば、このソ連のような失敗に終わってしまうとの思いが強くなり、退職して専門に勉強を開始することに決めました。

 神学校の2年生の時に、アメリカで大学生のための夏期キャンプがあり、それに参加しました。たまたま日曜日に訪れた長老教会のブックストアでラッシュドゥーニーの著作がバーゲンセールで売られていました。ラッシュドゥーニーの名前は、神学校の一年先輩のT氏の論文で知っておりましたので、興味があって買いました。

 「確かに律法について書いている本だろうが、これも、単なる十戒の解説書でしかないだろう」と思ってしばらく手をつけていなかったのですが、卒論で契約について書こうとしたときに、ぺらぺらとめくって驚きました。それは、私が大学生のときに探していた律法の背後を貫く思想について説明している本だったのです。

 ラッシュドゥーニーは、ヴァン・ティルの間接的な弟子であり、地上に存在するもの一切は神の創造なので神の規範に基づいて考え、管理する責任が人間にはあるという立場に立っています。彼は、さらにその具体的な方法として、人間の哲学ではなく、聖書という書き記された御言葉という確固とした基準を採用することを説いていました。

 またさらに驚くべきことに、神学校に入学するときに、若い牧師から入学祝いとして送られたTheonomy in Christian Ethicsというグレッグ・バーンセン博士の著書が、実は同じキリスト教再建主義の主要著作だったのです。それまでずっと書棚に眠っていたのですが、卒論のために取り出して読んでみると、まことにラッシュドゥーニーと同じことを述べていることに驚きました。その3冊の再建主義の主要著作を参考にして『現代における神の律法の意義について』という論文をまとめることができました。

 その後、母教会から地方の教会の牧師として任命された後でも、Institutesを読み、この研究を続けていました。「律法は、神の御言葉の一部であり、いや、むしろ、神の御言葉の基礎をなすものだ。イスラエルの統治の形態の中に、神に従う社会の原理を見ることができる」とのセオノミーの立場を明確に理解し、また同時に、「神が全能者であり、この世界が神の所有である以上、その支配は歴史とともに発展する」との後千年王国説の歴史観も理解するようになりました。

 神学校の卒業を控えているときに、同僚のT牧師と雑談をする中で「今、ラッシュドゥーニーを読んでいる」ということを話すと、彼も読んでいることがわかりました。彼は当時共立研究所でカルヴァン主義の講義を受けており、そこで知り合った米国人S牧師が同じ再建主義に立っていることを知って、彼と会いました。

 S牧師は、当時、ちょうど福音総合研究所という再建主義の研究所を設立したばかりで、その一室をお借りしてInstitutesの勉強会を開きました。

 さて、母教会の主任牧師は、神学校の校長であり、わたしの論文を読んだ上で任職し、また、その後牧師会において繰り返しこの立場を発表したのですが、「今日、律法には拘束力はない。殺人しても姦淫してもクリスチャンにとっては自由である。しかし、それが益となることはない。」という無律法主義の立場から私の活動を否定するようになりました。そのために、わたしとT牧師は、自発的に教会を去る決意をしました。それは、「教会の立場と異なることを伝えて教会の秩序を乱すより、働きの違いによってわかれ、それぞれの活動を続けるほうがよい」と考えたからです。

私はいままでの生涯の中で神から明確な導きを受けており、この働きの為に召されたと確信しています。現在は、研究と発表という形で主に仕えることが正しいと考えています。

 

 

 



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