ポスト・ミレのカルヴァン主義は近代世界宣教のパイオニアであった

 

<O師>

 近代宣教の父と言われたウィリアム・ケアリは、「ポスト・ミレであったので海外宣教した」とD氏は言われるが、彼の海外宣教を阻止しようとしたのはカルビニストの牧師たちなのだ。宣教史(教会史ではなく、宣教の歴史)の最高権威者の一人であるハーバート・ケインが、その著書の中で、ウィリアム・ケアリは「Staunch cAlvinists(頑固なカルビン主義者たち)に取り囲まれていた」(p85)と言っているように、予定論に立つ神学をもっていた、これらのカルビニストの牧師たちは、その中には、ウィリアム・ケアリに按手礼を授けた牧師ジョン・ライランド博士もいたが、「若いの、坐れ、もしも神さまが異教徒を改宗させょうと考えられたら、お前やわしの助けなどいらんのじや、神お一人でやられるわい」と叫んだのは有名である。

 このようにして、カルビニストに阻止されて、実に、ウィリアム・ケアリの海外宣教は、九九パーセント潰された。「改革派神学に阻止されたのだ」。D氏はウィリアム・ケアリはポスト・ミレだから海外宣教した、までは言うが、「カルビニストが大反対した」とは言わない。D氏はずるい人ではないので、おそらく、そのことを知らないのであろう。

改革派系の本だけ読むと、こういうことになる。ただ神のあわれみによりウィリアム・ケアリのために一パーセントが残った。

団体の長老格の牧師の反対にも拘わらず、記録によると「貧しさに打ちひしがれた教会の牧師たち」十二名と一人の信徒が、ウィリアム・ケアリを支持した。

たぶん、ヘブル語もギリシャ語もあまり分からない、田舎の名もない牧師たちであろう。名前の記録さえもない。海外宣教に反対したのはカルビン主義神学の博士たちとベテランの牧師たちである(Dr.John.C.Rylandなど)。

 ところがである。シカゴ神学大学(University of Chicago Divinity Schoolの宣教学教授ピアス・ビーバーは、「近代海外宣教を始めたのは、カルビニストであって、それはカルビン主義神学のゆえである」と論文の中にぬけぬけと書いている。あきれてものも言えない。

 だから改革派系だけのものを読んでいては、真理が分からない。真理が歪曲さえさせられるのだ。

 

<T>

改革派が海外宣教に反対したかどうかは、このポスト・ミレを巡る議論においてそれほど重要なことではない。なぜならば、すでに述べたように、改革派にはプレ・ミレもア・ミレもいるからである。しかし、歴史について読者が公平な判断を下せるように、近代の海外宣教において改革派が果たした重大な役割について述べなければならない。

ケアリはカルヴァン主義者によって宣教を妨害されたと師は言われるが、彼自身は、けっしてカルヴァン主義を敵視したり、それを妨害者と見なしていない。それどころか、彼は完全なカルヴァン主義者であった。また、彼の宣教に対してカルヴァン主義は決定的な役割を果たしていた。このことは数々の文献から明らかである。

彼は、十代のころにカルヴァン主義者トマス・スコットの教えに触れたことが自分を神の働きにおいて進歩する大きな助けになったと述べている。ケアリは、くだんのジョン・ライランドに対して次のような手紙を任地インドから送っている。

「どうか、親愛なるスコット氏に対して、私の感謝の気持ちを伝えてください。私は氏が著されたドルト信条史の本によって大いに恵まれたからです。時間が許せば、氏に手紙を書きたいと思っています。もし、私の魂に対して神が何がしかの働きをなされたとするならば、その多くは、私が主の道に一歩を歩み出した時に読んだ、彼の説教のおかげなのです。」1

また、彼は、次のような合意書をセランポール宣教会のために作成した。

「我々は、永遠の生命に予定された者だけが信じるということ、そして、神以外、救われる者を教会に加えることができる者は一人もいないということ、を確信する。しかし、それにもかかわらず、我々は次の事実を驚嘆の念を持って見ずにはいられない。すなわち、『自由かつ至高の恩寵』という栄光に輝く教理への偉大なる支持者であるパウロは、人々を神と和解させる働きに対して、最も大きな情熱を傾けた人物であったという事実である。」2

ケアリにおいて、カルヴァン主義と宣教の働きとはけっして矛盾はしていなかった。

さらに、ケアリの次にバプテスト・ミッションに対して影響力を持っていたアンドリュー・フラーは、自分がどのようにして「強固なカルヴァン主義」に導かれたかを証ししている。3

また、彼は、「ケアリやフラーは、カルヴァン主義者ジョナサン・エドワーズに対して関心をそれほど払わなければ、もっと用いられていたはずだ」と発言した何人かのミッションのリーダーたちに対して、次のように答えた。

「このように述べる人々が、ジョナサン・エドワーズの半分ほどにもキリストを伝え、彼が用いられた半分ほどにも用いられているならば、彼らの働きは今の2倍にもなっていたことだろう」と。4

ケアリやフラーらは、このような強固なカルヴァン主義のゆえに、当時のメディアから「馬鹿者、狂人、カルヴァン主義者、分派主義者」とののしられ、彼らの説教は、インド宣教反対論者から「最悪の部類に属するピューリタン的大言壮語」と揶揄されていた。5

 

ロンドン宣教協会においてもカルヴァン主義の影響は顕著である。E・A・ペインは1790年代のこの海外宣教の運動について次のように述べている。

「この福音主義的運動は、徹頭徹尾、強力なカルヴァン主義に貫かれている。…ロンドン宣教協会に関して、歴史家は次のように断言している。『協会の第一世代の伝道者のほとんどは、ウェストミンスター信仰告白に全面的に賛同しており、署名を求められればまったく躊躇無くそれを行うことができる人々であった』と。」6

協会の初期の指導者や初代宣教師たちは、幼い頃からピューリタンのカルヴァン主義によって育てられた人々であった。例えば、初代の中国宣教師ロバート・モリソンは、1807年に「…私は、ウェストミンスター信仰告白に従う、スコットランド教会の教義の下で教育を受けた」と述べた。7

 

また、奥山師は、ジョン・ライランド博士がケアリの宣教に反対したという有名な話を紹介しておられるが、アイアン・マーレーは、博士の子息ジョン・ライランドJr.の発言を引用して、これが疑う余地のない不動の事実であるとは必ずしも断言できないと述べている。

ジョン・ライランドJr.は、ケアリの親友であり、ノーザンプトン協会の同僚であった。また、この事件が起こったとされる時期に彼は、父ジョン・ライランドの副牧師として教会で働いていた。彼は次のように述べている。

「印刷物として出るまで、私はこの話を一度も聞いたことがなかった。だから、私はそれをどうしても信じられない」と。

そして、この話を否定する理由をいくつか挙げる中で、彼は次のように述べた。「私の父ほど、[福音宣教によって出現する]栄光の未来について祈り、説教した人は誰もいなかった」と。8

 

近代の世界宣教のパイオニアたち、初期の世界宣教団体のリーダー達の多くは、ポスト・ミレのカルヴァン主義者であり、このような終末論を主張するカルヴァン主義が宣教に対して決定的な影響を与えたことは明らかである。

 

ポスト・ミレのカルヴァン主義は、福音宣教によって世界の諸民族をキリストの弟子とすることは可能であると信じ、そのために努力してきた。

 

 

1. John Scott, The Life of the Rev. Thomas Scott, 9th edit., 1836, 114. cited in The Puritan Hope by Iain H. Murray, The Banner of Truth Trust, 1971, p.145.

2. A.H.Oussoren, William Carey, 1945, cited in The Puritan Hope, p.145.

3. Complete Works of Andrew Fuller, xxv and lxvii. cited in The Puritan Hope, p.146.

4. John Ryland, Life of Andrew Fuller, 545-6, cited in The Puritan Hope, p.147.

5. S. Pearce Carey, William Carey, 1923, p.51, cited in The Puritan Hope, p.146.

6. 'The Evangelical Revival and the Beginnings of the Modern Missionary Movement' The Congregational Quarterly, 1943, 223-236., cited in The Puritan Hope, p.147.

7. W. J. Townsend, Robbert Morrison, The Pioneer of Chinese Missions, p. 52, cited in The Puritan Hope, p.147.

8. John Ryland, Life of Andrew Fuller, 1816, p.175 cited in The Puritan Hope.

 

 

 

 



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