罪には必ず刑罰を!

 

ミュンヘン一揆の際に、ワイマールは、反乱を起こしたヒトラーに温情をかけた。刑罰らしき刑罰ではなかった。面会は自由であった。部屋の外への散歩も自由だった。ヒトラーはこのランズベルク刑務所を国費で賄ってくれる大学と呼んだ。差し入れの本も自由でヒトラーは少なくとも1日2冊の本を読んだという。

犯罪者には、このような温情は御法度である。

犯罪者とは、すきがあれば、常に犯罪を犯すことを狙っている人物なのだ。

宅間容疑者も、前に起こした事件で、精神障害であれば、刑に問われないことを体験で知った。

テレビでやっていたが、ある田舎の高速道路には、わきに抜け道があって、地元の人は、その抜け道から自由に高速道路に入って料金を払わずに利用している。

このように、一般人でも、利益があれば、ちょっとした隙を利用して悪いことをしようと思うものだ。

一般人と犯罪者との違いは、その悪事のレベルの違いだけである。

一般人は、たとえチャンスがあっても人を殺そうとは思わない。

しかし、犯罪者というのは、チャンスがあれば、人を殺し、金品を奪い、虐殺しようと狙っている者たちなのだ。

だから、犯罪に対して甘い顔をすることは御法度なのだ。

ワイマールはヒトラーに甘い顔をしたので、図に乗らせた。

警察も宅間容疑者に隙を見せた。

だから、彼は、精神障害ならば、罪を犯しても罰せられないことを体験で学んだ。

人間は、神の被造物である。

だから、神の決定した法に対して責任を負っている。法を破れば、2つの道しかない。

(1)謝るか。

(2)処罰されるか。

現在の精神障害者や未成年に責任を問わないのは、これ以外の道なのだ。これは、神の創造された世界においてあり得ない方法である。

神は、すべての罪に対して責任を取らせる。なぜならば、罪をそのまま許容することは、神の絶対性を脅かすことだからである。

神は絶対に聖なので、一つの罪でも見逃すことができない。だから、すべての罪について、人間は先にあげた2つの道のどちらかを選ばなければならない。

しかし、ヒューマニズムの刑罰は、これ以外に第3の道―責任を取らせない道―を作った。

罪を犯しても、責任を取らせないのは、宇宙の秩序に逆らっている。

アフリカのある部族は、動物が人間を襲った場合、その動物を必ず殺すそうである。動物にも責任を取らせるそうである。そうしないと、その動物は人をまた襲うからである。

責任を取らせないと、誰でも、罪から罪に落ちていく。殺人を容認する社会は、殺人者を増やしている。殺人を犯しても、罪に問われなければ、また殺人を犯す誘惑の材料を与えることであり、また、他の犯罪者にも殺人を犯す動機を与えている。

宅間容疑者のような人間に死刑以外の刑罰を与えるならば、日本の社会は崩壊する。

 

01/06/17

 

 

 



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