進化論とキリスト教は相容れない

 

<ご質問>

私はキリスト教徒ですので、神による万物の創造を固く信じています。しかし いわゆる創造論には同情をもちつつも、残念ながら受け入れることができません。創造論を唱える人たちの基本的な間違いは、事実と解釈の区別がついていないところに大きな原因があると思います。進化の事実と進化論という理論は別物だという認識が必要です。私も現在の進化論は欠陥だらけであると思っています。だからといって進化は無かったのだと飛躍し、事実を否定するのは不幸なことです。神による創造と進化の事実とは決して矛盾対立するものではなく、両立することだからです。

 

<お答え>

たしかに、事実(進化があったという事実)と解釈(進化論)とを区別する必要はあるでしょう。しかし、それでも、古今の進化論は、その事実を証明しようとする試みですから、現在の進化論に反論することは進化という事実を否定することにおいて重要なステップであると言えるでしょう。進化論者が唱える説に信憑性がなくなれば、それだけ進化があったという理屈もそれだけ否定されるわけです。

進化論は解釈であって、進化が事実であるということは、その解釈の脆弱さによって左右されるものではないという主張は、個人の信念としては有効であっても、他の人々を説得するという意味ではあまり意味がありません。もし進化が事実であるというならば、その理由を進化を否定する人々に対して納得のいく形で説明できなければならないからです。

創造は動かしがたい事実です。

これは、世界を素直になって見れば明らかです。この精緻な宇宙と生物界の秩序と仕組みを見れば、創造者を疑うことはできません。

さらに、聖書そのものがそのように述べています。神は、人間が疑うことができないほど明らかな形で被造物を我々の目前に置いておられるとローマ1章で言われています。ですから、創造を否定する人々は、自分の心にウソをついているのです。彼らは、自分の心で素直に認めていることを無理に圧迫しているので不自然なのです。

無理に女になろうとしているオカマの立ち振る舞いからわざとらしさが消えないように、創造の事実を否定する人々の言動には、常に不自然さが伴ないます。彼らは、自然の気持ちとして創造を否定しているのではなく、無理やり創造の事実を見ないようにし、創造者を心の中から追い出そうとしているのです。

さて、それでは、創造は、進化という過程を経て行われたというご主張についてはどうでしょうか。聖書は、創造は、神の言葉によって、一挙に(ただし人間に模範を示すために段階を踏んで)行われたと証言しています。私たちは、この証言を無視することはできません。もし聖書を文字通り信じることが誤りであるならば、他の個所も文字通り信じなくてもよいということになり、聖書は人間の理性によって切り張りができるということになってしまい、聖書信仰は崩れます。聖書信仰が崩れるならば、我々は信頼できる正典を失います。それゆえ、創造を創世記の秩序のとおりに信じることができなければ、キリスト教は啓示宗教ではなく、自然宗教、理神論になってしまい、正統的信仰ではなくなってしまいます。

神は全能者です。神は無から世界を創造されました。神の前に時間も空間もありませんでした。すべては神から出たことなのです。となれば、神が時間に支配されることはありません。だから、カナの婚礼の席において、イエスは、水を一瞬にしてぶどう酒に変えることができたのです。水がぶどう酒になるには、通常、ぶどうの木が水を吸い上げて、それをぶどうの実になるように樹木の中で複雑な過程をとおります。それには時間がかかります。しかし、神はそのような過程をすべて超越することができるのです。なぜならば、神は無から世界を創造された方であり、時間を超越しているからです。神が何かを行われる場合、時間の拘束を受けないのですから、創造において、何十億年もの時間がかかったと考える必要はありません。そのような気の遠くなるような時間を設定しなければならないのは、クリスチャンではなく、神を前提としないで世界の成り立ちを説明しようとしているノンクリスチャンです。彼らにとって、何十億年もの時間は、無秩序から秩序ができたことを「神抜きで」説明するために絶対不可欠なのです。十年や百年でアメーバから人間になったと主張すると、笑われてしまいます。しかし、何十億年という時間を設定すれば、人々にそれらしく説明できるのです。

「そうだなあ。何十億年もの時間があれば、そのような稀な出来事でも起こるかもしれない。」と人々に信じてもらえるから、そのようなタイムスケールを用いているのです。

しかし、クリスチャンは、相対の世界を主張しているわけではありません。クリスチャンは、この相対の世界を超越した絶対者を前提としているのです。絶対者を証しするつもりならば、相対の世界だけで完結するような理論は不要であるばかりではなく、有害です。

物事を徐々に作り上げるのは、有限者の特質です。有限者がぶどう酒を作るには、ぶどうの実をつんできて、それを樽の中に寝かせなければなりません。何年もの時間をかけなければ上質のぶどう酒はできません。しかし、神は瞬間にして、婚礼の人々が賞賛した「上質のぶどう酒」を作ることができるのです。これこそ、無限者の証しなのです。無限者が人間と同じような過程を経なければ何事も成し遂げられないとするならば、それは、ギリシヤ神話の神々と同じように、「人間を大きくしたもの」でしかないのです。私たちクリスチャンは、神を人間と同一線上に置くことはできません。神と人間とは質的にまったく異なる「絶対他者」なのです。

聖書全体は、神をこのようなお方として描いており、その意味において、ギリシヤ哲学やローマ・カトリック神学、弁証法哲学の存在論とは決定的に異なっています。彼らにとって、神とは、存在の階段の頂点に立つものでしかありません。岩石の上に生物が、生物の上に人間が、人間の上に天使が、天使の上に神が、というような序列を作ります。しかし、聖書は、神とはこのような序列に属さない。神と被造世界の間には決定的な淵が横たわっていると主張しています。

進化は、そもそもヘーゲル弁証法哲学から生まれたものです。ダーウィンの前に、ヘーゲルのロマン主義の立場に立った進化論が多数存在しました。しかし、実証主義者が、このようなロマン主義進化論を否定し、「実証性が欠ける。これは宗教にほかならない。」と指摘したために、進化論に実証性を与える(つまり事実に基づく厳密な証明の手続きをとる)必要が生じました。ダーウィンは、この時代的な要請に見事に応えました。それなるがゆえに、彼の著書『種の起源』は世の中から熱狂的に受け入れられたのです。

19世紀中ごろの時代精神は、カント以降の、「世界は神の創造によると考える必要はない。世界は人間が構築したものであってよいのだ。神など持ち出す必要はない。人間は、神のために生きているのではなく、自分のためにのみ世界を解釈すればよいのだ。」というヒューマニズムの人間自律思想でした。ヒューマニズムは、世界から神を追い出し、「世界は神の御手によって創造され絶えず支配されている」とするキリスト教の摂理信仰に対して徐々に優勢な地位を獲得しつつありました。しかし、カントやヘーゲルの人間自律思想は、科学の帰納法的認識論にのみ立とうとする実証主義者から攻撃を受けて、「カントやヘーゲルも単なる思弁でしかないではないか。彼らの世界観には実証性がないではないか。」という批判を受けていました。

つまり、当時の人々は、「神とは無関係に世界は成立しているというヒューマニズムが正しいのかもしれない。世界は神抜きで自律的に誕生し、自律的に発展しているのかもしれない。しかし、それにしても、その考えには科学的な裏づけがないではないか。」という煮え切らない思いを持っていたのです。つまり、実証性が満たされれば大手を振って「神は死んだ!」と言えるが、誰かそれを適えてくれる人はいないか、と探していた状況でした。

ダーウィンは、生物の成り立ちについて、様々な実例を挙げて、自律的進化を説明しました。それゆえに、人々は熱狂的に彼の理論を受け入れたのです。ここにおいて、17世紀から始まる「背信思想」は、キリスト教に対して決定的な優位性を獲得したのです。

しかし、同時に、ダーウィンの思想には大きな罠がありました。それは、「世界が自律的に弱肉強食、自然淘汰の原理によって進化しているならば、人間の倫理とか人生の意味とかはどうなるのか。弱者救済という社会福祉は無意味なのか。」といういわゆるヒューマニズムが求めていた「(神抜きの)共存共栄、自由の理想」が同時に崩壊したということです。ヒューマニズムは、(1)人間は自由である。神の法などに強制されない自由を持っている。という理想(ヒューマニズムの人格理念the humanistic ideal of humanity)と、(2)世界は科学的な法則のみによって自律的に成立している。神からの外力は働かない。だから世界については科学によってのみ正しい知識を得られる。という理想(ヒューマニズムの科学理念the humanistic ideal of science)から成っています(これはよく「自由対自然」という図式で表現されます)。ヒューマニズムはこの両者を調和させる試みだったわけですが、ダーウィンの成功は(2)が、その圧倒的な勝利によって(1)を飲み込んでしまったということを意味していました。

ヒューマニズムは、「神から完全に自由な理想郷」を目指していましたが、皮肉なことに、神からの自由を得るために作り上げた思想によって、自らを運命の奴隷としてしまったのです。ダーウィン以降、この科学理念の勝利は、人格理念を徹底して打ちのめし、合理的な「人間自由探求」の試みを人々に断念させました。その結果、非合理主義を公然と主張する実存主義以外人間に残された道はなく、その徹底した相対主義が世界を席巻するようになりました。「人生に意味はない。世界に意味はない。価値はすべて相対的に決定される。」という思想が世界に蔓延しました。さらに、この相対主義は、科学理念すらも飲み込み、「歴史はただ自然の成り行きによって勃興・繁栄・衰退を永遠に繰り返すだけである」という徹底した相対主義に立つ歴史主義(historicism)においては、世界を合理的に解釈し、普遍的なものを求めることを旨とする科学理念すらも否定されるに至り、ヒューマニズムは自らの理想を徹底して破壊する結果となったのです。

ここにおいて、人類は、いかなる世界観も、守るべき倫理的掟も、自由も、合理性も失い、混沌の中に落ち込みました。つまり、何でもありの世界が現出したのです。

私たちの周りに広がる世界は、このような近代哲学の作り出した相対主義の混沌の世界です。

ダーウィン主義は、ヒューマニズムの人格理念だけではなく、科学理念そのものも破壊するに至った相対主義による世界崩壊の契機を作りました。

「生物は弱肉強食によって進化する。そこに倫理も法もへったくりもない。強い者が勝ち、弱い者が負ける」という冷徹な世界解釈から生まれるものは、最初ヘーゲル流の弁証法的秩序であるように見えましたが、結局それは、秩序ではなく、混沌を生み出しました。たえず世界を維持しておられる秩序の神、摂理の神は否定され、単に無目的に栄枯盛衰を繰り返す虚無の世界だけが残りました。

これは、文明の否定です。進化論は文明を否定せざるをえないのです。

まとめ:

(1) 進化は聖書が教える絶対者、超越者を否定する。

(2) 進化は世界から意味を奪い、文明を破壊する。

 

 

01/05/27

 

 

 

 



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