証し(愛の形) by 富井 敏夫

 

  マタ19:19 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
                              
「対岸の火事」 という成語がある。
自分の利益にならないことには関わらない態度を簡潔にまとめた表現である。

さて、イエスが話された善いサマリヤ人の話 (ルカ10:29−37) に関連する。
これは有名な記事でるから 事の経緯は省略させていただくが、イエスは「強盗に襲われた者の隣人とは、哀れみをかけてやった人」との答えを正解とされた。

愛とは「かかわること」。  
 「かかわる」 とは 「その人の立場になること。その人がして欲しいという事をしてあげること」   A friend indeed is a friend in need. 

私は、いずれは障害児教育にとの思いを抱きながらも、その道の先輩たちの奮闘努力の姿を見聞きするにつけ、わが身の非力を思うにつけ、実際に飛び込むまでには5年ほどの経緯があった。

時至って私は、盲・ろう・精神遅滞児・病弱児・したい不自由児などの学校に職を求めることに決心し、結局盲学校で働くことになった。

教職員や寮母などには比較的にクリスチャンが多く、また、児童生徒も同様であった。
当時私は聖書愛読者ではあったが、信仰告白はためらっていた。
しかし 彼らに集会や証し会などに自宅の一間を提供して便宜を計らってやることに躊躇しなかった。

「かわいそう」ということで、校外から善意の方たちの慰問、激励、お手伝いなども多かった。私はそれら善意の方たちにお願いしてこう言った。
「かわいそうに、は禁句です。」
生徒たちが 「憐れみ」 「お助け」 「好意」 などを一方的に「受ける」 立場に自己概念を築くことがないように気をつかっていたからだ。

元来、聾教育志向であったので、私は点字をまったく知らなかった。
そこで私は盲生徒の前で背水の陣をしいた。三日後まで「あたらしい先生」 という題で作文を書くように指示した。
 「先生。点字が読めるの ?」 「今は読めません。あさっての月曜日には読めます。」
 
三日で点字を征服した。 三日後に私は子供らの前で点字作文を全部読んだ。
だれよりも生徒たちが喜んでくれた。 
「僕たちの先生は点字ができるんだよ。」 と至極当たり前なことを喜んで吹聴していた。彼らだけの点字を操ること。それによって私は盲生徒の世界の、その入り口に半歩でもはいることができた。 彼らの生活に僅かながらかかわることができたし、小さいながらも愛を形にすることができた。

次は、盲学校一般の話ではなく、札幌盲学校の実話である。

「先生、僕たちばかりいろいろと慰問されて、嬉しいんですけど、なにか僕らで奉仕らしいことできませんか。」 なにかの雑談の合間に生徒会幹部の一人が切り出した。
「いい議題ですね。知恵を出し合いましょう。」
「工場や農場なんかで、マッサージなんてどうでしょう。」
「賛成、賛成。 でもまだ免許を取っていないし・・・・・」
「施設とか病院なんかで、歌とか、器楽とか・・・・・」
「それがいい。でも、それほど上手じゃないから・・・」
「僕らと同じくらいのレベルのところでならいいだろう。」 というところに話が進んで、
「非行少年の施設」 を訪問することに全員の意見が一致した。

彼らは雄雄しかった。哀れを受ける立場としての自己認識を拒否した。
かえって五体満足ながら、不良と呼ばれる境遇に身を落とした少年たちに憐れみを覚えた。
世間から毛嫌いされている少年たちを、「対岸の存在」 としてではなく、彼らに自らかかわろうとしていた。
非行少年の立場に立っていた。
彼らの隣人となろうとしていた。 
彼らを愛していた。 

 教師から少年院当局に伺ったところ、「ぜひに」 との快諾を得た。

多くは粗暴犯であった少年たちは、始めて接する「目のない生徒たち」にどのような感想を抱いたかはわからない。
しかし、体育館の壇上で演技する盲児たちの姿に、彼らの目つきと態度が次第に変わっていった。

お馬のおやこ。   とんぼのめがね。  大きな古時計。  母さんのうた。 聖歌・賛美歌。 などなど。 じょうずとは言えない演技ながらも懸命に奏でるハモニカ、アコーディオン、笛などの合奏や独唱。 あるいは、 「私たちの学校」 「私の将来の夢」 などの作文朗読などなど。 もはや演技の巧拙は問題ではない。
 問題は見えないところにあった。 「愛」 のキャッチボールのなかにあった。
それまで涙などと縁のなかった少年たちは、幼いころを思い出し、故郷を、家庭を回顧しているうちに、盲の身で暗黒の世界に生きている彼らと、「五体満足の身」で反社なことをしてきた自分とを比べて深く省み、一人二人と泣きだして会場は感動の渦となっていった。

終わって軽食のテーブルを囲んで懇談の時を持った。
胸打たれる少年たち。
かつては非行グループの兄貴とか番長とか呼ばれていた誇り高き勇者たち。
両者の会話。
「僕ら目明きとして、なにか君たちにしてあげられることはないだろうか。」
「それなら点字をおぼえて欲しい。 皆さんと文通ができたらなお嬉しい。」

結局、「点訳奉仕」 ということに落ち着いて、実行された。 かつては人に暴行を加えた手に小さな点筆が握られた。小説、詩歌、医学 (鍼灸に関する) 聖書などが次々と点訳された。 
晴眼者ならばポケットに入れて持ち運ぶ聖書も、点訳すれば教室の壁いっぱいの面積を必要とする。 これらの点字本は、指でさすって読まれるので、長い間に擦り切れてしまうが、多くの盲生徒たちの学習と精神生活の充実に極めて有益であった。

このようにして盲児たちと非行少年たちとが互いに、かかわり合い、相手の立場に立ち、隣人となり、愛し愛される美しい情景を繰り広げたことであった。 
「愛」とは、文字でも言葉でもない。

イエスが説かれたサマリア人に明らかな隣人愛は、この少年たちの間に行き来する具体的な「かかわり合い」 にほかならない。

  あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ  (マタ 19:19)

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富井 敏夫は、私の実父で、札幌大通り教会の長老です。

 

 

02/10/06

 

 

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