ローマ・カトリックについて

 

<ご質問>

 歴史的に見れば、ローマ・カトリック教会にしても、いろいろ変化はあると思うのですが、ローマ・カトリック教会は、「異端」なのでしょうか?ローマ教皇制やマリヤ崇拝、聖人崇拝などの偶像礼拝的要素がありますし、プロテスタントと違って、マカベヤ書とか「外典」なども聖書に含めていますよね。しかし「使徒信条」とか「三位一体」とかは認めているわけでしょう。不健全な要素は多々あるけれども、キリスト教会に属すると言えるのでしょうか?千年王国前再臨説の立場の本を読むと、ローマ・カトリック教会は、「淫婦バビロン」「宗教的バビロン」とされているようですが、カルヴァンの聖書註解などを見ても、ローマの教皇制を厳しく批判しているように思えるのですが、キリスト教再建主義の立場では、ローマ・カトリック教会はどういう位置づけを持っているのでしょうか?ローマ・カトリック教会の霊的な本質は何でしょうか?異端なのでしょうか?不健全だけれどもキリスト教なのでしょうか?

<お答え>

 ローマ・カトリックの神学には二つの大きな問題があります。

(1)「無からの創造」を否定する

 ローマ・カトリックは、聖書的な創造論というよりも、ギリシャ思想の存在論が基底としてあります。

 創造は、すでに存在した永遠の世界――自然秩序natural order――の中において行われた追加的行為であるとしますので、聖書が主張する「無からの創造」とは異なります。無から創造されたということになれば、万物を支配し、万物に意味を与えるのは神以外にはない、神だけが権威であり、人間はその権威に従うべきだ、ということになるのですが、世界が無から創造されたのではないならば、創造の範囲外にある部分については神は権威ではない、それについては人間は自由にものを考えることができる、ということになります。つまり、ローマ・カトリックにおいては、人間理性は自律しており、信仰なしでも成立する知識の領域が存在するとするので、「信仰を不要とする領域を許容する世界観」なのです。

例えば、カトリックの神学者ギルソンは次のように言います。

 

「これらの[古代ギリシャ人の獲得した]真理には、多くの欠陥、無数の間違いが混入しているということは疑いようもない事実であるが、それにもかかわらず、それらが真理であることに変わりはない。ギリシャ人の自然理性が発見したこれらの知識は、信仰の恩恵をまったく受けずに得られたものなのであるから、今日においても、真理は、自然理性によって獲得できる。しかも、それは当時と比べてより簡単に獲得できるようになっているのであるから、どうして、アリストテレスの時代よりも今日のほうがより信仰を必要としているということができるだろうか?」(Ettienne Gilson, Christianity and Philosophy, London, 1939, pp. 35, 36. cited by C.V.Till, The Defense of the Faith, Phillipsburg, NJ, 1967, p.133)
 

 それに対して、聖書は、「神を恐れることは知識のはじめである。」と述べており、信仰を前提として知識を獲得しなければ、人間は、正しく世界を知ることも、解釈することもできないと述べています。世界に存在するあらゆるものは、神によって創造されたのであるから、あらゆるものについて人間が神を差し置いて独自に判断し、決定してはならず、すべてについて神の御言葉を最高権威となければならない。

 宗教改革において、このような信仰的認識論が再確認されたのですが、ローマ・カトリックは、依然として理性の自律を許容する認識論を採用しました。信仰の世界は信仰によって認識し、自然秩序の世界は理性で認識できる、と。

(2)神を「存在者」としない

 ローマ・カトリックの神観は、アリストテレスのそれに大きく影響されています。アリストテレスの神観を取り入れたために、カトリックは非常に聖書と矛盾した神観を持たざるをえなくなりました。

古代ギリシャ思想の基本的な図式は、「悪は魂から来るのではなく、肉体から来る。」という「肉体堕落主犯説」です。人間そのものが悪いのではなく、人間の肉体が悪い。このように問題の根源を、環境(肉体)に置き、倫理(罪を犯す心)に置かない「環境決定論」がギリシャ思想の基底にあります。

 

万物は物質(質料)と霊魂(本体)から成り立っており、物質は悪の源であり、霊魂は善の源であるという霊肉二元論があります。この世のあらゆる存在は、より霊に近づけば近づくほど尊く、物質に近づけば近づくほど劣って行く。それゆえ、岩石より動物、動物より人間、人間より天使、天使より神が尊いとされた。それゆえ、絶対者である神は、完全に純粋な霊魂でなければならない。アリストテレスは、この完全な霊魂を、「存在世界と一切かかわりを持たない純粋な究極的思考(the supreme Thought)」であるとしました。神は完全に純粋なので、悪の根源である物質や存在そのものから完全に自由であり、いかなる接触点も持たない、としました。それゆえ、神は、この存在する世界とはまったく無関係であり、それについての知識も持たない。神は、世界を創造したのでも、世界を支配しているのでもない。神は、もっぱら自分について思考し、知識を持つ「self-thinking Thought(自己思惟的思考)」である。

 さて、アリストテレスの神は、このように「存在世界」との関わりを失った神であったのですから、聖書にある「存在する神」とは完全に矛盾します。モーセに現われた神が「存在する者(He who is)」であるのに対して、アリストテレスの神は「存在しないもの(it that is not)」でした。アリストテレスの神観を取り入れたローマ・カトリック神学の大成者トマス・アキナスは(それ以後のカトリックの護教論者と同じく)、両者の矛盾を合理的に解決することができず、結局、聖書の神を「非存在」の領域に押し込めざるをえませんでした。しかし、聖書の創造の教理を否定することもしなかったため、大きな矛盾を抱えることなりました。すなわち、「存在しない神は、同時に、世界の創造者でもある」という矛盾です。

 ヴァン・ティルは、はっきりとこの矛盾を指摘しています。

「…どうやって、存在しない神と、世界の創造者である神の両者が、哲学の真の方法の中に、合理的に、同時に含められることがありえようか。」(C.V.Till, Defense of the Faith, p. 136)

 この神観における混乱は、そもそも、ギリシャ思想の「霊肉二元論」を受容したところに原因があります。つまり、霊は善、肉は悪という考え方は聖書には存在しないのです。肉を悪とするから、存在世界を受容できなくなり、その結果、神を「存在とは無縁のもの」と定義せざるを得なくなってしまうのです。

 ローマ・カトリックの神観は異端の神観です。

そのほかにも、ローマ・カトリックの基本神学には、古代ギリシャ思想が濃厚に入っており、「ギリシャ思想キリスト派」のような様相を呈しているのです。それゆえ、これをキリスト教の一派と見ることは到底できないでしょう。D.M.ロイドジョーンズは、「ローマ・カトリックはサタンの最高傑作だ。」とすら述べています(キリスト者の戦い、いのちのことば社)。ただし、それじゃあ、カトリックの中に真の救いは全く存在しないのか、というと、キリストの贖罪が伝えられるところにおいては、救われる人もいるでしょうからそこに全く救いは存在しない、とは言えないでしょう。しかし、それだからと言って、その教会が正しい教えを伝える真の教会であるということにはなりません。

 

 

 

 



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