霊的現実を物質化せよ

 

> 地上に御心を成し遂げるといっても、人

> 間的努力では神様の栄光にはなりませんね。

> 神様に喜ばれる奉仕のみが、実を結びます。

 

 厳密に言えば、「御心を成し遂げること」は、「神様に喜ばれる」ことを願う人以外はできません。

 神が「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」と言われたのは、いくら「礼拝を重視する」と述べても、「不誠実」で、「神を知ろうとしない」ならば、その礼拝とはまったく無意味だということです。

 つまり、形式主義者は「御心を成し遂げる」ことはできないのです。

 聖書的に言えば、「人間的努力」、「肉的努力」とは、形式主義的な奉仕です。イエスがパリサイ人を批判されたのはこの点でした。

 今日、教会において誤解されているのは、「霊的」という言葉です。

 人々は、聖書において啓示されている「霊的な事柄」をすべて「非物質的事柄」だと誤解し、「霊的な奉仕」をすべて「非物質的奉仕」だと誤解しています。

 だから、政治とかに関わるのは止めようというのです。「キリスト教は霊的な事柄を扱い、霊的に対処するものだ。だから、政治はキリスト教が扱う領域ではない。」と考えるのです。

 しかし、聖書において、「霊と肉」という区別は、必ずしも「非物質と物質」という区別だけではありません。「神中心的と人間中心的」との区別の意味もあるのです。

 「あの人は霊的な人だ」と言った場合、「あの人は非物質的な人だ」という意味ではないのと同じように、「霊的な努力」とは「非物質的な努力」と同義ではなく、「神中心的な努力」ということであり、「霊的に解釈する」とは「非物質的に解釈する」と同義ではなく、「神中心に解釈する」ということです。「神中心に・・・する」とは、「聖書に啓示されている神を主権者として崇め、聖書に啓示されている神の利益を第一に優先させつつ・・・する」ということです。

 「肉(または人間)的奉仕」をする人は、「物質的な奉仕」をする人ではなく、「人間中心的な奉仕」をする人です。つまり、その目標と動機が「(御心を行うことにあるのではなく)人間的野心」から出ており、その方法が「(聖書的知恵ではなく)人間中心的知恵」によっている人です。

 霊的奉仕は、非物質的領域、物質的領域をとわず、可能です。教会の奉仕だけではなく、政治、経済、文化、芸術、スポーツ、あらゆる領域において、神を中心とする、真心から出た奉仕は、霊的な奉仕なのです。

 逆に、人間的奉仕も、非物質的領域、物質的領域をとわず、可能です。政治や経済等だけではなく、教会の奉仕においても、神を中心とせず、真心から出ていなければ、その奉仕は、人間的な奉仕なのです。

 

 

01/10/09

  

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