歴史的、正統的キリスト教を拒否する現代のキリスト教

 

 いや、ほんとです。

 どの教会も、何故かわかりませんが、歴史的に正統的な教えを拒否したがる。

 そして、代替物を一生懸命探している。

 「霊の戦い」とか「教会成長学」とか「可能性思考」とか、次々と新しい流行を探して、御祭り騒ぎをする。

 そろそろ、本物を求めてはいかがでしょうか、と聞きたくなります。

 福音派がカリスマ派を拒否するのも、異言、癒し、預言などにアレルギーがあるからでしょう。

 アレルギーになる前に、きちんと釈義を行って、聖書がこれらのものを本当に否定しているかしっかりとした意見を持つのがまず第一の条件ではないでしょうか。

 最近の預言ブームも危険です。 預言は、あくまでも聖書の裏付けがなければならないのです。

 しかし、預言を強調する現代の牧師は、あまり聖書や聖書の教理について知らない。真剣にこれらの問題について考えたことがない。もっぱら、教勢を伸ばすことにしか関心がないように見える。

 旧約聖書の預言者は、自分が語った預言が成就しない場合、石打にされた。

 しかし、新約聖書の預言は、「吟味す」べきもの(原語では、「疑う」べきもの)です。つまり、旧約聖書のように、預言に絶対的な権威を持たせていない。なぜか。

 聖書があるから。

 預言は、すべてまず疑われなければならない。そして、聖書によって吟味し、聖書の教えと矛盾していないか確認する必要がある。だから、預言を強調する教師は、聖書の教理について知らなければならない。

 今日預言はないという人がいますが、それでは、牧師のメッセージは預言ではないのか。と聞きたくなります。牧師のメッセージは、極端な意味では「個人預言」でなければ意味がない。つまり、牧師のメッセージは、個人の生活における問題に具体的に光を当てることがなければ意味がない。個人は、メッセージを聞いて、自分の身の上に適用し、確信を与えられて、確かな歩みをする。これが牧会です。

 旧約聖書においては、預言者が我々の細かな部分に光を当ててくれたが、新約聖書においては、聖書の一般的な教えだけになり、神が自分の個人的な生活について光を当ててくれることはない、というならば、教会からほとんど人はいなくなるでしょう。

 改革派系は、あまりにも、超自然を切り捨てるようになった。カリスマ派は、あまりにも超自然を重視しすぎて、御言葉や教理を軽視する傾向がある。福音派は、教理にこだわるわけでなく、かといって、超自然的体験を求めるわけでもない。つまり、福音派は、よい意味でも悪い意味でも「中庸の徳」を求めすぎ、良識人の社交場でしかなくなってしまった観がある。

 歴史的キリスト教にしっかりと立ち、教理的にしっかりしており、なおかつ、超自然を重視したあの偉大なスポルジョンのような説教者はもういなくなってしまったのでしょうか。

 今、教会に必要なのは、人々が集まりやすいように広い駐車場を作ることでも、大きなリバイバル聖会を開くことでもなく、教会史と教理史を調べて、歴史的、正統的なキリスト教とは何かについてもう一度振りかえることだと思います。

 

 

01/11/17

 

 

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