宗教を軽蔑する者は頑固者か天邪鬼である

 

よく「俺は、経験科学だけを信じる。宗教などいらない。」という人がいるが、彼は、経験科学のなんたるかを知らない。

経験科学だけでは、世界観になりえない。

経験科学は、人間が経験したことだけを知ることができると考えるから、経験できない事柄(死後の世界、宇宙のはて、未来など)や、物事の本質とか意味とか倫理などについて扱うことができないので、世界観にはなりえない。(*)

それゆえ、「経験科学だけを信じる」と豪語する人々が、「死後の世界は存在しない」とか「神はいない」と言うときに、彼らは、経験科学から一歩飛び出して、世界観を作り出している。

もちろん、彼らの来世観や倫理観は、経験科学では得られない知識であるから、それは「思弁」や「直感」によって得られた知識であるということになる。

こうなると、彼らは、「俺は経験科学だけを信じる」とは言えなくなる。つまり、彼らも、宗教者と同じ類の人間だということになる。

「いや、俺は特定の○○教を信じていないから無宗教だよ。」といくら述べても、彼らが信じている内容を調べれば、それは実質的に宗教であることは明らかなのだ。

「特定の宗教、例えば、キリスト教、仏教、イスラム教を信じていないから無宗教だ」とは言えないのだ。

人間は、ただ科学的に立証された事実だけで生きて行くことはできない。経験科学は論証的に知識を得ようとするが、論証だけで知識を得られる人などいない。

例えば、彼が人事課の採用担当官であるとしよう。

彼は、論証的に面接対象者を調べるだろうか。

いや、彼は、人物を評価するときに、直感を頼りにするだろう。

そもそも、論証だけでよいならば、面接などする必要はない。なぜ面接をするかと言えば、ペーパーよりも会って相手の人柄を自分の経験や常識、感覚、印象などから判断したほうが確実だと考えているからだ。

このように、我々は、みな直感に大きく依存して生きている。我々の生活の大部分は、総合判断を必要とする事柄なのだ。だから、「経験科学だけを信じる」などと言える人はひとりもいない。

人間は、論証できない事柄に大きく依存して生きている。だから、宗教を馬鹿にすることはできない。

宗教は、論証できない部分をカバーして、総合的にものごとを判断するための根拠を与えてくれる。

人間が年を重ねて経験を積んでいくと、総合的に対象を評価するスキルが増してくる。いろんな人間に会って、騙されたり傷つけられたりすると、人を警戒するようになるだろう。そして、どの人が信用できて、どの人が信用できないかを慎重に判断するようになるだろう。

年を取ってもなお、「俺は実証されたものしか信じない」などと言っているのは、よほど厳密にものを考える訓練を積んでいないか、それとも、強がっているだけである。

年を取れば宗教を尊重するようになるのが普通である。人生において実証されたものなど、ごく僅かであり、大部分はもっぱら直感だけで評価しなければならないものであると気づいている人は、「実証されたものと実証されたものの間に存在する無限の間隙をどのようにして埋めるか」という疑問を持つようになる。

彼は、その間隙を埋めるために、先人の知恵や、宗教の教典から教えを請うようになるだろう。

これが普通の良識ある人間の態度なのだ。そして、人は素直になれば、偉大な宗教者の知恵に対して敬意を払うようになるものだ。

年をとってもなお、唯物主義や無神論を捨てない人間は、よほどの頑固者かあまのじゃくなのだ。

(*)

世界観は、3つの要素から成り立つ。

この世界は何故・どのようにして存在しているのか、自分は何故存在するのかなど、存在の意味や性質について考える「存在論」。

物事はどのようにして知ることができるのかについて考える「認識論」。

何が善であり何が悪であるかについて考える「倫理」。

 

 

02/01/26

 

 

 

 



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