律法の回復

 

カルトの中でも、ものみの塔は、前千年王国説的で、統一教会は後千年王国説的だといわれています。

ものみの塔は、この世に関わることを一切嫌って、行事に参加せず、徴兵を拒否するそうですが、統一教会は、文鮮明による地上王国建設を期待しています。

 

一度原理講論を読んだことがありましたが、あれは、アリストテレスの形相と質料の二元論と、東洋の陰陽学と、キリスト教を合体させたもので、ざっと読んだだけで、これは哲学をやっている人が作ったと分かりました。

 

案の定、ソウル大学の哲学科に属していた人物の作です。

 

実は、貿易会社に勤めていたときに、一期上に中川さんという東大法学部出の先輩がいて、常々、ずいぶんと変わった印象を与える人だなあ、と遠くから見ていたのですが、後で、退職して、「幸福の科学」という宗教団体の教祖となり、大川隆法という名で売り出しました。

 

この教えも、いかにも偏差値教育を受けた人が作ったもので、カルトの特徴は、人々が受け入れやすいものをうまくアレンジするというところにあります。

 

そういう意味では、今日の「心理学を取り入れた伝道方法」などもカルトの仲間に入るのではないかとすら思います。

 

「今は、律法の時代ではないので、律法を適用することはできない」というのは、イエスの「わたしは律法と預言者を廃棄するために来たのではない」という言葉と真っ向から敵対する異端の教理であるといえると思います。

 

「皆さん!私たちはイエス様によって救われたのです。だから、律法などにもはや縛られる必要はないのです!」と言われれば、ものすごく解放された気分になりますが、その先は地獄が待っています。公的生活も私的な人間関係も滅茶苦茶になります。

 

私の友人でカウンセラーをやっているH兄弟によると、東京のある福音派の教会の若い牧師は、性的な悩みを持ってやってきた相談者にたいして、「そんなに我慢ができないなら、ソープランドに行けばよいじゃないですか。」とアドバイスしました。

 

こういった牧師が生まれることなど、戦後のキリスト教界をリードしてきた牧師たちは想像できなかったでしょう。「律法には縛られないけど、そこまで言うのは行きすぎじゃないですか。」と彼らは言うに違いありません。

 

しかし、彼らが教えてきた原理は、まさにこのような結論を導き出さざるをえないのです。

 

「クリスチャンは律法に縛られない」と教えたならば、「それじゃあ、風俗にでも行くか」というクリスチャンが現われても当然ですし、不倫に走る教会員が現われても不思議ではありません。

 

聖書を律法の時代と恵みの時代に分けて、現在は律法の時代ではないから、律法とは異なる原理が働いているのだ、という教えは明らかにサタンの教えです。

 

私を指導したある牧師は、「姦淫してもいい。殺人を犯してもいい。しかし、すべてが益となるわけではありません。神に服従することが大切です。」とよく説教していました。

 

私の頭は、非常に混乱しました。「姦淫しても殺人してもよいが、服従しなければならない?」

 

「じゃあ、何が服従の規準なのだろう?」

 

神学校の説教演習の授業で、詩篇1篇から「律法を守る人は祝福される」というテーマで模擬説教したら、指導講師から、「律法を守ることを勧めてはなりません」とお叱りを受けました。

 

今日の神学校は、混乱の中にあります。それは、「律法の効用」についてしっかりとした意見を持っていないからです。

 

「律法を守れというと、すべて律法主義になる」と考えているのです。

 

律法主義とは、「律法によって救われる」とする行為義認を主張することなのであって、生活の指針としての律法遵守を指すのではありません。

 

パウロが、「我々は、律法の下にはない」と言ったのは、「人を裁いて地獄に落とそうとする『律法の呪い』から解放された」ことを意味するのであって、「人を正しい方向に導く『知恵としての律法』からの解放」を意味するのではありません。

 

このような区別をしていないため、今日の講壇から、「律法を守ることに拘ると窮屈な生活になります」とか「律法ではありません。霊的な生活を送らねばなりません。」というような分裂した教えが教えられているのです。信者は、このような説教を聴かされると混乱します。

 

聖書において、「霊的な生活」とは、何か聖霊によって空中に舞い上がることではなく、「律法を守り行うことができる生活」のことを意味しているのです。

 

聖霊の働きは、私たちを罪と死の原理から解放し、律法を守り行うことができるようにしてくださるのです。

 

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 」(ローマ8・4)

 

「私は御霊に満たされているので、律法から自由なのです」という、今日クリスチャンの口からよく聞く発言が間違いであるのはここから明らかです。

 

「御霊に従って歩む」のは、「律法の要求が全うされるため」なのです。

 

律法と離れた働きをする霊は御霊ではありません。律法を成就しない霊は御霊ではありません。それは、悪霊なのです。

 

私たちは、大きな改革をしなければなりません。神は、今日の教会の惨状を嘆いておられます。

 

もう一度、聖霊による律法遵守が強調されなければなりません。まず、クリスチャンが悔い改めて、律法忌避の謬説を否定し、神の法に立ちかえる運動を発展させなければなりません。

 

 

 

 



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