被害者に弁償する法律の制定を!

 

 聖書において、殺人以外の犯罪者には、3つの可能性がある。

 (1)目を損なったら、目を損なわれる。

 (2)目と同等の価値のある金銭などで償う。

 (3)金銭を払えない者は、強制労働によって被害者に弁済する。

 この3つのいずれを採用するかは、被害者が決定する。

 聖書の刑罰は、被害者中心である。

 今日の法律のように、刑罰を国家中心に決定すると、被害者が泣き寝入りせざるをえない。

 被害者に弁償することによって初めて秩序は回復することになる。

 聖書の世界観の中心は被害者への弁済である。

 もし、被害者への弁償が軽視されるならば、十字架においてキリストが贖いを成し遂げたことをも軽視することになる。

 人間は、罪を犯すことによって、神に損害を与えている。その損害の弁償を神が、御自分の御子によって代わりに弁償させたのが十字架の刑罰である。

 被害者への弁償を軽視する法律は、弁償を重んずる法律に変えなければならない。そうしないと、神が被害者の代わりに、国家に弁償を要求することになる。

 クリスチャンは、万物の回復の仕事を委ねられている。ヒューマニズムの国家が、弁償を軽視する法律を作るならば、クリスチャンは、政治を変えて、弁償を重んずる法律に変えなければならない。回復が完了しない間は、歴史はその目的を達成したことにならず、それゆえ、キリストは再臨されることはない。

「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシアと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の回復のときまで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・20ー21)

 

 

 



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