復讐について、など

 

>「右の頬を打たれたら左の頬を出す」「あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈る」

>「兄弟を7の70倍赦す」「復讐するな」そして「愛は寛容であり親切です。愛は・・・妬

>まず・・・怒らず・・・隣人の悪を思わず・・・」ということが書かれている聖書の個所をど

>う解釈されるのでしょうか。怒る神、妬む神、悲しまれる神、後悔される神、裁かれる神、

>怒られるイエス様、ある人達をひいきされたイエス様(ちょっと言葉が悪いのですが、そうい

>うところが新約聖書の中で見え隠れするように私には思えるのです。)、

>悲しまれるイエス様、涙を流されるイエス様・・・これらの御姿を現され

>る神と今挙げた聖書個所とがどう折り合いをつけられるのか教えてください。

 

(1)合法的な処罰と復讐の違い

 今日、クリスチャンが犯している大きな誤りは、「合法的な処罰」と「復讐」を混同している点です。

 聖書は、律法という規則に対して違反した者を厳正に処罰することを命じています。

 処罰がなければ、社会の秩序は維持できないからです。

 それゆえ、申命記などでは、「殺人犯を処刑せよ。」と命じている同じ文脈の中において、「復讐してはならない。」とあり、また、「あなたの隣人を愛しなさい。」と命じられています。

 このように、聖書において「殺人犯を処刑すること」は、「愛のない行為」や「復讐」であるとみなされていません。

 そもそも、神は万物の意味を決定される方ですから、何が愛であり、何が愛ではないかを決定するのは神です。

 ですから我々も、その愛の定義に従う以外に道はありません。

 「復讐」とは、個人的な怨恨から相手に危害を加えることです。合法的な処罰を願うことは「復讐」ではありません。

 「復讐」は憎しみから生ずるものであり、「合法的な処罰」は正義を求める心から生じます。

 「敵」や「迫害者」に危害を加えられても、それに恨みを抱くことは禁止されており、むしろ、彼らが困っているときには、助けてあげることが求められています。

 だからと言って、じゃあ、滅茶苦茶なことをやって、神を恐れずクリスチャンを迫害したり、盗み、姦淫、殺人・・・を犯す者が、処罰されず、かえって繁栄することを願うべきかというとそうではなく、彼らによくしてあげることによって、「彼らの頭の上に燃える炭火が積まれる」のを期待するのです。

 パウロは、神に敵対する人々、それゆえ、クリスチャンにも敵対し、「理由無く」クリスチャンを苦しめる人々に個人的な復讐をすべきではないといっています。神の怒りにまかせなさいといわれています。そして、むしろ、彼らが飢えたなら、食べさせてあげ、彼らが渇いたら飲ませてあげなさい、と命じています。

 それは、「彼らの頭に炭火が積まれ、裁きが早く来るため」であると述べています。

 クリスチャンは、あくまでも、正義が地上に速やかに訪れることを願うべきです。

 正義を速やかにもたらすためには、彼らを苦しめることではなく、彼らに善を行うことです。そうすれば、神は、自由に彼らに報いを与えることができます。しかし、もし、クリスチャンが自分で復讐するならば、神の裁きは遅れます。

 

(2)復讐と牽制の違い

 悪をもって悪に報いることをすべきではないというのは、「いかなる牽制もしてはならない」ということを意味するのではありません。例えば、強盗が侵入してきた場合に、防衛することは許されます。また、強盗が侵入しないように高い塀を築くことも違法ではありません。自分の国や家族を守ることは、神の秩序を守ることであり、神の御国建設にとって基本です。ダビデは、羊の番をして、狼や野獣から群れを守りました。これが間違いであることを示唆する個所は聖書にはありません。むしろ、羊を守れない牧者は、無能な牧者と呼ばれています。

 自分の子供がいじめっ子にいじめられているならば、ただ一方的にいじめられるにまかせることを教えるのではなく、自分の私的な領域に入ることを牽制することを教えるべきです。いじめっ子は、こちらが抵抗しないとますます図にのって踏み越えてはならない一線まで踏み越えます。例えば、暴力で金銭を要求されたならば、暴力が不当な手段であり、また、金銭を相手に支払う義務はまったくないのですから、その旨を伝えるべきであり、それでも要求するならば、相手の攻撃に対して防衛する手段をとることを教えるべきです。自己防衛したり、牽制することは、この堕落した世界においては、神の秩序の維持のために必要不可欠な手段であり、それを否定する個所は聖書にはありません。主張すべきことを主張できる子供に育てることをしないと、子供は人を恐れる偶像崇拝者になります。

 「右の頬・・・」は、個人的な怨恨から悪者に手向かうことを禁止しているのであって、個人を侮辱する行為を無制限に許すことを教えているのではありません。イエスも、裁判の席において、頬をぶたれたときに、「わたしが何も悪いことをしていないのに、何故打つのか。」と反論しています。

 問題は、自分の取っている行動が、「私的な怨恨」から来ているのか、それとも、「正義を求める心」から来ているのかなのです。

 私的な怨恨からの「呪い」は否定されていますが、神の正義を求める「呪い」は肯定されています。パウロは、「神を愛さない者はのろわれよ。」と述べています。

 

(3)神の「えこひいき」について

 イエスは、ある者を愛され、ある者を憎まれました。

 ラザロとその姉妹を愛され、パリサイ人を憎まれました。

 それは、ゆえなく、愛したり、憎んだりしたのではありません。

 ラザロの家族は、へりくだって罪を悔い改めて神の教えを素直に喜んでいましたが、パリサイ人は傲慢で罪を悔い改めず神の教えに素直に従うことを嫌っていました。神が愛されるのは、「へりくだった魂」「悔いた心」であり、神が憎まれるのは「高ぶる目」「いつわりを言う舌」です。

 ですから、この意味において、「神にえこひいきはない」のです。

 しかし、さらに高い視点から見ると、このような従順の心と反逆の心が生じたのがもっぱら人間からであると考えるならば、「へりくだり」は行いになってしまいます。

 つまり、「わたしは、へりくだったから神に愛され、救われたのだ。パリサイ人は、高慢だから救われなかったのだ。ははは。」という「自己義認の驕り」を許さないために、「救いも滅びもすべて選びによってあらかじめ決定されていた」、と聖書は述べているのです。

 ラザロの一家がへりくだったのは、神が彼らを選ばれたからです。

 神が、永遠の昔に、彼らを「従順な者」として選び、彼らの心に素直さを与えたので、彼らは従順になり、キリストを信じることができたのです。

 パリサイ人が傲慢になったのは、神が彼らを選ばれなかったからです。

 神が、永遠の昔に、彼らを「不従順な者」として選び、彼らの心に素直さを与えなかったので、彼らはかたくなになり、キリストを信じることができなかったのです。

 人間に功績を一切残さないために、神は、救いの一切の主導権を握っておられるのです。

 だから、ラザロは、「私が謙遜だったからではなく、神が私を謙遜にしてくださったので、素直になって救いを受け入れることができたのだ。神様あなたの恵みに感謝します。」と告白しなければならないのです。

 神は、永遠の昔において、誰を謙遜にし、誰を傲慢にするかを決定されました。それは、神の一方的な選びであり、人間の側においては一切功績はありません。

 この意味において、神はえこひいきされる方なのです。

 しかし、人間は、このようなえこひいきに文句を言うことはできません。

 「こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。するとあなたはこう言うでしょう。『それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。』 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』といえるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(ローマ9・18−21)

 神は、創造者であり、主権者なので、被造物を思いのままに作る権利があります。

 それゆえ、ある者を素直な者として選び、ある者を頑固な者として選ぶ権利があるのです。

 素直な者は、福音を受け入れて救われ、頑固な者は福音を拒絶して滅びます。

 被造物である人間の側において、「神よ、私をなぜ頑固な者に創造されたのですか。」と言うことはできません。そのような権利はありません。そして、あくまでも、頑固になって福音を受け入れないのは、自分の意志によってそのようにしたのですから、もっぱらそのような責任は彼にあります。神はべつに、人に罪を犯させるように誘惑することはありません。罪を犯すのは、自分の欲望が原因なのです。

神は、選んだ者には、悪から立ちかえりたいという希望を与えますが、選んでいない者には、そのような願いを与えず、彼の欲望を放置します。そのため、彼は「自分から進んで」罪を犯すのです。

 

 

 



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