後千年王国説の実践 (2) by ジェフェリー・J・ヴェントレラ

 

ポスト・ミレは、福音伝道を促進する。十字架は、神的勝利の土台であり、事実、十字架は、クリスチャンが歴史において勝利することを保証している。セオノミーとポスト・ミレは、我々に、伝道と宣教に燃えることを求めている。本稿において、楽観的終末論が持つ倫理的な性格について述べてみたい。

主の御国は拡大すると聖書は述べている。

「王の名がとこしえに続き、太陽のある限り、その名が栄えますように。国々の民は皆、彼によって祝福を受け、彼を幸いな人と呼びますように。主なる神をたたえよ。イスラエルの神、ただひとり驚くべき御業を行う方を。栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ。栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。」(詩篇72・17-19)

残念なことに、改革主義者の中で、福音伝道の必要性を説く人は多いが、それを実践する人は少ない。言葉と実践の間に大きな倫理的隔たりがある。ヤコブはこのような偽善を非難して、こう述べている。「しかし、御言葉を行う者になりなさい。ただ聞くだけの者となって、自分を欺くことがないように。」(ヤコブ1・22)と。

改革主義のクリスチャンは、全地が「神の栄光で満たされ」、「すべての国民が神を崇める」ようになる時の状況を心の中で深く思い巡らすべきである。これらは単なる耳障りのよい御題目でしかないのだろうか。もしそうでなければ、今、ここにおいて、これらの御言葉を実現するために何を行わねばならないか、何が主の御心なのか、考える必要があるだろう。

改革主義のクリスチャンはカルヴィニストであるから、この質問に対して学問的な解答を備えている。すなわち、神は、御自身の命令を実現するために「第2の手段」を使用されるということ。1 しかし、この場合でも、言葉には実践が伴なわねばならない。今日、我々は、改革主義における宣教の衰退の現実を、謙虚になって反省しなければならない。

宣教に関する統計データ

地球規模で見れば、世界の12カ国(シンガポール、ノルウェイ、フィンランド、ニュージーランド、スウェーデン、アメリカ、英国、ドイツ、インド、日本、韓国、ブラジル)の中で、一つの教会から二人以上の宣教師を出している国はシンガポールしかない。これらの十二カ国における一教会当たりの宣教師数の平均は、たったの0.12である。2 これらの12カ国には、数千の教会があるが、実際に海外で活躍する宣教師をサポートすることに重荷を持つ教会は決定的に不足している。改革主義の教会においても状況は同じである。

例えば、正統長老教会(OPC)の群れには、多くの教会があるが、一つの教派としてサポートしている宣教師の数はたったの15人である。3 お金は必ず働きについてくる。もし教会が(または教派が)宣教の情熱に満たされるならば、その情熱を実現するのに必要なお金は、必ず与えられる。ある人が述べたように、「神の仕事を神の方法に従って行うならば、神からの経済的支援が絶えることはない」。「キリスト教の純粋な形態」(ウォーフィールド)である改革主義の信仰こそ、宣教の働きを促し、それを支える強力な教理的基礎を提供する。そのため、紙の上では、改革主義信仰には、伝道と宣教において「大きな市場」があるはずなのだが、残念なことに、実際はそうではない。なぜだろう。

福音が熱心に語られていないのは、心に問題があるからだ。すなわち、「人への恐れ」があるからなのだ。「私たちは、アルミニアンにはなりたくないですからね。」とか、「戸別訪問は、頭のネジが一本取れたカリスマ派がやることですよ。」とか、「神は主権者です。御心のときに、私たちの(死んだ、生命のない、腐った、不親切な、もてなしの姿勢の欠けた、党派的な)教会に導いてくれるでしょう。しかし、心では密かにそうならないように願っているのですが。」5 と考えている。 聖書が述べているように、「人を恐れると罠に陥る。しかし、主に信頼する者は守られる」(箴言9・25 ESV)。私たちは、「忠実である」ということよりも、「改革主義者」であるということに関心があるのだろうか。6

カルヴァン主義バプテスト アーネスト・レイジグナーが述べたように、「伝道しない教会は、化石となり、すっかり干上がり、キリストや世界にとって無用の長物と化す」のだ。7 伝道・宣教と、改革主義信仰の頑強なカルヴィニズムとは、対立概念ではない。むしろ、まったく逆である。とくに、カルヴィニズムが楽観的終末論と融合するときに、これは真実となる。

宣教における改革主義信仰

改革主義信仰のバイタリティーは、宣教の働き人に大きな確信を与える。恵みの教理は、救いの確実性の根拠を神においている。「そして、永遠の生命に予定された者はすべて信じた」(使徒13・48 ASV)。改革主義信仰は、適切にも、「伝道と宣教の働きは、成功しないということができない」と教えるのだ。8 我々は、ポスト・ミレの信仰を持たねばならない。

聖書は、「神は、御自分が生命に予定された個人を、選び、召し、再生させる」と述べるだけではなく、「御自身の自由な願いによって、多くの人々を御国に招き寄せることを予定され、その計画を実行しようとしておられる」とも教えている。

つづく

 

 

02/05/01

 

 

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