安息日はキリストを指し示す

 

>ただ、すみません。「イエス御自身が安息になられた」とか聖書にもある「人の

>子は安息日の主です(マタイ12:8)」とは、どういう意味ですか?

 安息日は、救いを祝う日である。なぜならば、イスラエルは、その日にエジプトから救われたことを祝ったから。神は子羊の血を門に塗ったイスラエルの家を過ぎ越された。

 しかし、彼らはすでに安息の中に完全に入っていたのではなく、安息日は、来るべき安息の実体=キリストを待ち望みつつ繰り返すべき予型でしかなかった。動物犠牲が、それ自体有限なものでしかなく、完全に罪を贖うことができず、それゆえ、ただキリストという完全に罪を贖う効力を持つものを指し示す予型であったように、安息日も、それ自体有限な安息であり、安息の実体キリストを望み見るための実物教育でしかなかった。

新約時代のクリスチャンは、キリストという完全な安息に入ったのである(マタイ11・28)。クリスチャンは、キリストとともに甦り、天に上り、天の所にキリストとともに座っている「完全な救いの中に入っている存在」である(エペソ2・4−6)。それゆえ、日曜日だけが安息の中におり、平日は安息の中にいないというような考え方をすべきではない。クリスチャンは、全時間救いの中におり、安息の中にいる。毎日が安息日である。

 

 

 



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