三位一体と女性尊重

 

イスラム教の根本的な問題点は、「唯一神信仰」にある。

こう言うと驚かれるかもしれない。

「おまえだって、唯一神を信じているじゃないか。」と。

日本人から見れば、両者とも「一神教」であり、同じようなものに見えるだろう。しかし、同じ唯一神信仰であっても、イスラム教とキリスト教は雲泥の違いがある。

それは、イスラム教の神が「一つの人格」しか持たないのに対して、キリスト教の神は「三つの人格」を持つからである。

一つの神で、一つの人格しかない神が創造した世界において、「多様性」には意味がない。常に、究極の価値は「一つoneness」に置かれるからである。

しかし、一つの神で、三つの人格を持つ神が創造した世界において、「多様性」には意味がある。三位一体の神において、「一」と「多」はどちらも究極である。「一」であることも究極の価値を持ち、「多」であることも究極の価値がある。

父なる神が、子なる神を生み出したのでも、子なる神が聖霊なる神を生み出したのでもない。三者は、永遠の昔から存在した。

聖書的キリスト教は、「統一」に価値を置くのと同時に、「多様性」にも価値を置く。

一つの人格しか持たない神が究極者であるならば、多様性とは、単なる逸脱でしかなくなる。多様性とは、統一に至る「不完全な段階」であるとされる。

体力などにおいて男性に劣っていると見なされる「女性」は、男性の「でき損ない」としか考えられない。だから、イスラムと同じ「単一人格神」を信じる理神論は、女性を蔑視する。フランス革命以降、合理主義思想は、理性を賛美した結果、「感情的、非論理的思考をする」女性を蔑視した。この傾向は今日まで続いている。

ギリシヤ無神論の影響を濃厚に受け、「単一性」を究極の価値に置いて、被造物の秩序を「一」にむけて構築したスコラ神学も同じである。

「植物―動物―人間―聖職者―教皇―キリスト―神」という序列を作って、すべてを一つに向わせる神学では、女性差別が起こるのもしかたがない。こういう意味においては、進化論も同じ価値観を生み出さざるをえない。生物的能力が上にある者がすぐれた者とされるので、女性は、男性の下に置かれる。

さて、聖書的キリスト教は、「一」だけではなく、「多様性」も究極の価値を持つと考えるので、被造物の秩序を一つに向う序列の中には置かない。聖職者と一般信徒の違いは、優劣の違いではなく、役割の違いである。一般信徒が格上げすると聖職者になるわけではない。職業は、それぞれが、神から一人一人直接に賜った使命であり、どの職業が上で、どの職業が下であるということはない。同じように、男女の違いは、「男性に召された」人と「女性に召された人」の違いであり、神がそれぞれに与えられた役割の違いである。

三位一体の神を究極とする聖書的キリスト教でなければ、女性差別は原理上、撤廃できない。

一神教だけではだめである。むしろ、一神教は全体主義や女性差別を生む。イスラムにおいて、女性が男性の奴隷のように扱われているのも当然の果実なのだ。

聖書において、「夫は、キリストが教会を愛したように、命がけで妻を愛しなさい」と命じている。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ525

なぜならば、男性が力において優れているのは、女性を守るためであり、「神が教会(クリスチャンの群れ)を守る」ことを証しするためなのだ。

聖書的キリスト教は、男女の間に序列をつけない。力のある男性は、力のない女性を守り、女性が、自分の持っている能力や性質を充分に発揮できるために存在する。

 

 

 

01/09/23

 

 

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