科学の正しい定義はあるか?

 

 「何が正しい科学であって、何が正しくない科学か」という定義ができないのが科学だ、と言う者がいる。

 つまり、科学というのは、単なる約束事であって、確固不変たる真理に基づいて科学を定義することなどできないのだ、と。

 

 これは、不可知論の認識論に毒された人間のたわごとである。

 「人間は、絶対的な真理に到達できると宣言してはならない」というのが、近代の人間中心主義の認識論哲学が辿り着いた、致命的な欠陥である。

 事実、厳密な経験論は、人間理性から出発すれば、確実な知識はどのようなものでも絶対に得られないと結論せざるを得なかった(例えば、個物を観察し考察したことが、類を観察し考察したことになる、と証明できない。目の網膜に映った像について考察したことが、その実物を考察したことになる、と証明できない、など)。もしこの厳密な不可知論を受け入れるならば、科学の土台が崩壊するので、観念論などが救済を試みたのだが、実質的には、単なる主観主義に陥ってしまって、実質的な解決を得ることはできなかった。つまり、近代哲学はデカルトから100年も経たないうちに行き詰まりを迎えたわけである。

 

 科学が得られるあらゆる知識、そして、科学の定義すらも、それは客観的、明晰かつ判明に、得られたと言うことは不可能であり、それらは単に人間の観念が生み出し、構成した約束事でしかないのだ、というのが、理性への反省を経た現代という時代の真のヒューマニズム認識論である。もしそうではない、「実際に科学は絶対的な真理を獲得できるのだ」などと言うものがいるならば、デカルトの幻想から抜け出ていないオメデタ理性信仰者である。しかし、事実、進化論者には、こういった輩が多いから困ったものなのだ。

 

 人間の認識力の限界をこのように見据るのが真摯な科学者である。

 そして、そういった真摯な科学者は、けっして自分の領域を越えようとはしないし、また、自分が持っている知識を絶対不変のものだなどと考えない。なぜならば、彼は「人間理性だけが知識獲得の手段である」という前提を立てているからである。人間理性だけが知識獲得の手段であるという前提を立てれば、当然、「人間理性には限界があるから、絶対に確実な知識など得られない」と結論する以外にはない。

 

 そこで、科学は、ドグマを知識の土台にすることはできない、ドグマを知識の土台とするものは擬似科学だ、ということになるのであるが、そんなのは、不可知論を基にして定義した科学から見ているからであって、不可知論を基にして定義することそのものが正しいかどうか不明なのであるから、「擬似科学」もへったくりもない。

 

 不可知論に基づく認識論を金科玉条のごとく崇め奉っている狂信者は、あらゆるドグマを科学から排除することにやっきになるだけではなく、あらゆるものに正邪の判断をつけることを拒否する。

 

 彼らは、「○○は正しい。△△は間違っている。」という判断は誰も行えないのだ、と言うことが、どのような場合においても言えると主張するのだが、そういう主張そのものが正しいことを少しも説明できない。

 

 有神論者は、「人間は、自分の認識能力を超えたことがら(物事の意味、本質、個物と普遍、霊的存在など)であっても、全知の神の啓示によって知ることは可能である。」という前提を立てるから、事の正邪を告げることができる。つまり、今回の例で言えば、「○○は正しい科学、△△は間違った科学」と定義することができる。

 

 しかし、不可知論者は、そのような神を前提とした認識論を受け入れることは間違いだ、だから、その神の啓示によって得られた知識を受け入れるわけにはいかない、と言うのだが、けっして「じゃあどうして神を前提とした認識論を受け入れることは間違いなのか」について説明はできない。

 

 「科学に正しい定義も、間違った定義もないのだ。それは単なる約束事に過ぎないのだから」というような者は、「それじゃあ、どうして正しい定義、間違った定義があるという主張が間違いであると言えるのか」との質問に答えることはできない。

 

 無神論者、相対主義者には、絶対のものさしなどない。

 

 だから、ものさしを持つことそのものが彼らから見れば異端(例えば、擬似科学っていうレッテル)になるのだ。

 

 しかし、なぜそれが異端であるかは説明できない。

 

 ものをつきつめて考える習慣のない人間は、最後には「だって〜、神が創造したわけじゃないんだから〜、絶対的な基準なんてこの世界には存在しないでしょ〜。」とわけのわからないことを言い出す。

 

「神の不在」をどうやって証明するのか?もし、それがそもそも挙げてはいけない疑問であるならば、それでは、なぜそのような答えを得られないような疑問をあたかも万古不変の土台であるかのようにして、「絶対的な基準なんてこの世に存在しないのだ」と堂々と主張できるのか。

 

 

 

 



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