カルヴァン派は霊肉二元論から離れよ

 

カルヴァン派が現実の問題について対処することに失敗している遠因は、カルヴァンの聖書理解にある。

 

カルヴァンは、使徒行伝1・8の注解において、イエスは、地上王国の到来を否定し、王国は霊的で、天的なものであると述べた。

 

「というのも、ここにおいて[イエスは]弟子たちの頭から、地上王国に関して彼らが好んで抱いていた間違った考えを払拭しようとされた。イエスは、御自身の御国は福音の宣教に存するということを彼らにお示しになった。それゆえ、富や外面的な地位、その他のあらゆる地上的な事柄について彼らが幻想を抱くべき理由はどこにも存在しない。むしろ、『福音宣教によってキリストが(全)世界を服従させる時に、キリストは支配を確立したのだ』と彼らは耳にしていた。つまり、キリストは霊的に支配されるのであって、この世的な方法で支配されるのではないということになる。」

 

このカルヴァンの地上王国否定は、無千年王国説と置換神学を導き出した。

 

カルヴァン派は、「生存しているクリスチャンはこの世界において王ではない。昇天したクリスチャンは王であるが。」と考える傾向が強い。この無千年王国説的傾向は、「クリスチャンは物質世界とはかかわりがないから」というカルヴァン派の一般的な考えと調和する。

 

置換神学も、カルヴァン派の「霊化」の影響から生まれている。

「新約聖書は旧約聖書を霊化したものである」との立場から、旧約聖書の神の民イスラエルは今日存在せず、いかなる意味もない、と考える。

 

このような考えは、すべて「霊」という言葉を誤解したところから発している。

 

ギリシヤにおける「霊」は物質と対置する概念である。それゆえ、「霊的」という形容詞は、「物質的ではない」とほぼ同義となる。

 

しかし、聖書における「霊」は必ずしも物質と対立する概念ではない。

 

我々が「霊的な人」と言う場合に、「肉体を持たない人」という意味で用いているのではないのと同じように、聖書において、「霊的な」とは、「物質的ではない」という意味ではない。

聖書において、「霊的な」とは、「神的な」とか「神に由来する」とかいう意味で用いられている。

 

それゆえ、イエスが「私の国はこの世のものではない。」と言われた時に、それを、ギリシャ的な「霊的な国」=「物質的ではない国」=「地上のものではない国」とギリシヤ的に考えることはできない。それは、「神的な国」=「神に由来する国」=「神の方法による国」ということなのだ。

 

つまり、人間の原理や人間の力・知恵によって築かれる王国ではなく、神の原理、神の聖霊によって築かれる王国を指している。聖書がクリスチャンを「霊的なイスラエル」と呼んだとしても、クリスチャンが霊であって、肉体を持たないということを述べているのではなく、「神の原理によって生まれた」とか「神への信仰によって生まれた」ということを意味しているのと同じように、「霊的な御国」は「神の原理によって生まれた国」「神への信仰によって生まれた国」を意味するのであって、「物質的ではない国」を意味していない。

 

カルヴァンに由来するこのような誤解から、カルヴァン派は、キリストの王国を非物質の王国と解釈する傾向が強い。無千年王国説の地上王国の否定、イスラエルの否定はここに由来する。

 

たしかに、キリストの王国は、福音伝道によって確立されるものであって、武力や人間の知識によって築き上げられるものではない。しかし、それはやはり、地上に関わる王国なのだ。キリストの王国は、地上に打ちたてられねばならない。イエスは、「御心が天で行われるように、地上でも行われますように。御国が来ますように。」と祈れと弟子に教えられた。御国は地上に来なければならない。

 

もし、カルヴァン派の一般的な「天上王国」が本当であるならば、アダムに与えられた「地を従えよ」はどのように解釈するのか。アダムは、この地上を神の王国にするために召された。

 

この地上王国建設の命令が廃棄されたとはどこにも述べられていない。むしろ、カルヴァン派は、文化命令という形で、この地上に神の文化を建設すべきであると主張しているではないか。

 

カルヴァン派の無千年王国説や置換神学における「霊肉二元論」は、カルヴァン派の全体的な主張と矛盾する。

 

クリスチャンの「霊的な」生活とは、この地上に起こる現実的な問題を捨てたり無視することではなく、それを「神に由来する」方法によって対処することなのだ。

 

カルヴァン派がギリシヤ的霊肉二元論を捨て、無千年王国説を捨てない限り、この世に対して影響力を行使することはできない。

 

 

 

 



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