秘密の携挙

 

ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレを歴史的プレ・ミレと区別しているのは、「二重の再臨」の教理である。

歴史的プレ・ミレは、患難後携挙説(プレ・ポスト)である。

つまり、教会は患難を経験した後に携挙される。

それに対して、ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレは、患難前携挙説(プレ・プレ)である。教会は患難の前に携挙を経験する。

プレ・ポストの場合、携挙はキリストの(一度限りの)再臨の時に起こるので、万人にはっきりと見える出来事である。患難の後に、キリストが再臨され、その時、クリスチャンは天に携え挙げられる。クリスチャンもノンクリスチャンも、この驚異的な出来事を目撃する。

しかし、プレ・プレの場合、携挙は、患難の前に起こる第一回目の再臨の際に、人々が平和に暮らしている中で、突如として「秘密のうちに」起こる。患難時代の終わりにキリストは2回目の再臨をされ、千年王国の終わりに最後の審判が行われる。ハル・リンゼイは、この秘密の携挙の様子を「神隠し」のようであると述べた。ある日、気がつくと友人がいない。息子娘が消えた。運転中の車から運転手が消えてしまった。…

このような失踪事件が世界中で起こるだろう、と言う。

しかし、聖書は、このような「秘密の携挙」を支持していない。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(第1テサロニケ41617

「号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに」キリストが再臨されるときに、携挙は起こる。

号令と、声とラッパが響き渡る。

これがどうして秘密だろうか。だから、この個所は、ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレを破壊する決定的な聖句になっている。

 

 

01/07/22

 

 

 

 



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