聖書信仰を確立する以外に道はない

 

<ご質問>

いつも長文の回答を頂き、まことに恐縮しております。聖書に対する解釈などで、今までどことなく矛盾を感じていたようなことや、あえて、触れずにいたようなことに、しっかり目を向けさせていただいて、もやを晴らして頂いている気がしております。私も人に聖書のメッセージをお伝えする立場におりますが、英語が出来ませんので、日本語の書物にあたるしかなく、どうしても読書がリベラルの立場のものに偏っていたとおもいます。自分の所属する教派も、半分聖書主義、半分リベラルのようなところがありまして、それこそ、「中立的なキリスト教」といえるのかもしれません。自分としては、聖書信仰を力強く弁証できるような立場でいたいですし、そのための学びももっと必要だと思っています。なかなか、学ぶ時間が取れない現実の中におかれていますが、このミレニアムのホームページにおいて、富井先生から聖書信仰にたった、レベルの高い神学の学びをさせていただけることを、心から主に感謝し、これからも期待しております。どうぞよろしくお願いいたします。

<お答え>

大変貴重な御言葉をいただき感謝いたします。

私は、牧師として召されたというよりも研究者として召されたと考えており、目的は、聖書についての、単なる衒学的な学びではなく、生きて働き、この世界に強力な影響を与える信仰を喚起することにあります。

聖書は、神の御言葉である以上、聖書以上に権威のある言葉はありません。現代のクリスチャンは、実存主義のキリスト教の影響のため、神の御言葉と聖書とを切り離して考える傾向があります。しかし、私たちは、書き記された66巻の聖書各書そのものが神の言葉であり、それらが絶対的な権威を持つと考えています。もし、書かれた御言葉が神の言葉ではなく、御言葉を越えた神の意志を尊重しなければならない、というのが本当であるならば、「それでは、どれが神の言葉で、どれが人間の言葉であるか?そして、その選択をするのは一体誰か?」という問題が生じます。つまり、聖書を丸ごと信じることがなければ、結局、「人間理性至上主義」になってしまい、ヒューマニズムの一派にしかならないのです。

この点において、現代のクリスチャンは、非常に弱いのです。

聖書の中で「故意の殺人者を処刑せよ」と言う御言葉があっても、「え〜、それは言いすぎじゃないですか?」と言います。そして、「そんな極端な立場には立ちたくありません。」と言います。

それでは、その「極端ではない立場」とは一体どのような立場か、と言えば、彼らは答えることができません。結局、彼らは、「聖書は聖書。現実生活は現実生活。」という使い分けをする二元論者なのです。彼らは自分では聖書信仰と言いながら、御言葉を究極的権威とせず、自分の主観を優先する傲慢な人々です。

このような使い分けをして、現実の生活においては、世俗原理を取り入れるキリスト教は、神の御心から遠く離れているため、祝福はされません。そのため、現在、世界においても日本においても、キリスト教は、衰退の一途をたどっており、クリスチャンの数は減少しています。

かつて世界に宣教師を多数出したイギリスも、実存主義キリスト教やリベラリズム、世俗主義に支配され、霊的な退潮を経験しています。少数ながら残っている聖書信仰の人々、福音を尊ぶ人々は、ディスペンセーショナリズムによって、背骨を抜かれ、この世にとって毒にも薬にもならない厭世主義者、彼岸主義者になり下がっています。

現在、世界は霊的な危機の状態にあり、残りの民が起こされる必要があります。

神は、このような危機の時代には、聖書に従うことを喜ぶ純粋な人々を立ててくださいます。そして、幾多の試練を乗り越えて彼らは、再び神の御国を発展させる戦士として、この時代の思潮を逆流させ、聖書という不動の礎の上に、神的文化を創造します。

このHPにおいては、原理については触れられていますが、まだ各分野において聖書的な学問や職業、家庭、教会を具体的な形で実践する人々が欠けております。しかし、政治や経済、教育、文化において、御言葉による再建を行う人々は必ず起こされることでしょう。

この300年間、世俗はその原理を純粋化し、ヒューマニズムの悪魔性をはっきりと示しました。蒔かれた種が毒麦であることがはっきりしました。それは神の御心でした。「人間だけで理想郷を作れるならやってみなさい。」と黙認されたのです。人間は神から離れて天国を作ろうと共産主義や世俗民主主義を作りだしましたが、それは結局、人間が人間を抑圧する全体主義か、もしくは、無秩序と退廃の個人主義しか生み出しませんでした。私たちは、普遍的な原理を必要としています。進化論によって、自然法も破壊された今日、残された道は、「適者生存、弱肉強食の殺伐とした世界」か、それとも、「聖書を究極の権威とする秩序ある自由の世界」か二つに一つしかありません。

中立的キリスト教は、もはやいかなる力もありません。世の人々ですら、「根拠のない人道主義」には食傷しているのです。私が中学生や高校生の時代の、「青春ドラマ」はもう馬鹿にされる対象でしかありません。私たちクリスチャンは、聖書に立って、首尾一貫した原理を提示しなければなりません。「世界と人間は創造されたものだ。だから創造者の意見に聞き従わねばならない。」とはっきりと主張すべきです。

伝道のため、という理由で、世俗の原理と妥協することはできません。徹底した聖書信仰を確立する以外に道は残されていないのです。

 

 

02/02/20

 

 

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