終末預言はどこに?

 

<ご質問>

富井さん今晩は。私はミレニアムHPを聖書の学びのために役立たせてもらっている者です。

大艱難時代の預言が既に成就した、過去のものだとすると、いったい聖書のどこに、これから起こるべき終末預言が記されているのですか?それとも、終末預言などは最初から書かれていなかったのでしょうか?教えてください。

 

<お答え>

これから起こるべきことは、聖書の様々な個所に記されています。現在私たちが生きているのは、黙示録20章の千年王国の時代です。

キリストは、敵が制圧されるまで天にとどまっておられます。

「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(へブル1012-13
「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物が元の状態に回復する時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒321

敵を征圧するのは誰の責任かと言えば、それはクリスチャンです。

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(ローマ1620
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ611-12

クリスチャンは、諸国民、諸民族をキリストの弟子とするためにサタンと闘います。

「行ってすべての民族を弟子としなさい。父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、私が命じたことをすべて守り行うよう教えなさい。」(マタイ2819-20

それゆえ、すべての民族がキリストの弟子とならない限り終末はきません。

「すべての民族を弟子とせよ」と命じたにもかかわらず、それが完成する前に幕引きを行うことなどありえないからです。「万物が元の状態に回復するまで」、そして、「敵が足台となるまで」イエスは「天にとどまっていなければならない」のです。

よくキリスト教の雑誌などの文章において、「終末の時代」とか「終わりの時」とかよく言われます。

しかし、今が終わりの時代であることを証明する個所は聖書にはありません。彼らは主にマタイ24章の「前兆」を世界の終末のそれと解釈しているのですが、マタイ24章が世界の終末についての預言ではない以上、それをもって現在が終末であると示すことはできません。

そもそも、聖書において「終わりの日」の意味は様々です。

「しかし終わりの日に、わたしはモアブの捕われ人を帰らせる。――主の御告げ。――」ここまではモアブへのさばきである。」(エレミヤ4847

モアブに対する裁きの日が終わりの日であるといいます。もちろん、この裁きはすでに過ぎ去っていますので世界の終末と解釈できません。

「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』」(使徒217

この預言は、ペンテコステの日に成就しました。つまり、使徒の時代が終わりの日なのです。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです」(2テモテ31-5

これは、よく世界の終末における享楽的・退廃的世相をあらわすと解釈されています。しかし、聖書は歴史的文脈から離れて解釈してはならないのです。パウロは、誰に向ってこの手紙を書いたのでしょうか。テモテです。彼は、テモテに対して緊急の警告をしています。その時代が近づいていると。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ43-4

そしてそのような時代に対してどのように対処すべきかを教えています。

「しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(2テモテ45

このことから、どうしてこれが「世界の終末」を表すといえるでしょうか。この「終わりの日」とはテモテが直面していた時代のことを指すのです。

現在、ディスペンセーショナリズムのキリスト教が、我々に吹き込んでいる終末預言は、歴史的文脈を無視した私的解釈に基づくものです。いろんな聖書の個所を自分の意見にあわせて寄せ集めたものでしかありません。

聖書は、一貫して歴史の進展と福音の勝利を教えているのです。

 

 

 

02/03/02

 

 

 

 



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