世間体という名の呪縛3

 

社会の敷いたレールに乗ることは、楽である。
東大卒であるというだけで、「ブランド崇拝者」の間で認められる。いちいち、自分の価値を証明する必要はない。定められた仕事をしていれば、人間らしい生活も保障される。
しかし、そのレールに乗ることは、大きな代価を要求する。
それは、「他人による支配」である。
社会の敷いたレールに乗ろうとする人々は、自分を殺して人々の評価を得ることに血道を上げてきたわけであるから、人生のほとんどを洗脳状態の中で暮らしてきたわけだ。
自分の頭で考える訓練をつんできたわけでもなく、心の底から何かを好んだり、愛したり、正しいもの、価値有るものを見分ける能力を養ってきたわけでもない。
彼の心は、奴隷のそれと同じである。
主人が右を向けと言えば、右を向き、左を向けと言えば、左を向く。
もちろん、自分を肯定してくれる社会がうまく行っている時代はそれでもいい。また、それに順応して生きていても、不自由なく暮らせるならば、問題を感じないだろう。
しかし、偶像は、それだけでは絶対に済まない。
すべての偶像は、安定の代償として、個人の最も大切なものを奪う。偶像が目指すものは、人間の完全コントロールである。
北朝鮮がこれを例証している。
「私たちに幸せを与えてくれる偉大なる首領様に感謝します」
と「言え!」と命令される。
金正日が前を通れば、ピョンピョン跳ねて、満面の笑みを浮かべるように「しなければならない」。
つまり、「感謝」とか「喜び」の感情という純粋に内面的・個人的な領域すらも徹底的に支配される。
もちろん、奴隷になることを望んでいる人にとってこれは苦痛ではない。安定のために、自分の内面をすっかりくりぬいて捨ててしまった「生ける屍」にとって、徹底した屈従は苦痛ではないだろう。
しかし、生きている者、人間の尊厳を守ろうとする誇り高い人にとって、このような支配は耐えがたいものだ。
人生にリスクはつきものだ。
人間は、リスクを逃れることができない。
我々は、常に、失敗と悲惨の瀬戸際にいる。
いつ病気になるかもしれない。
いつ破産するかもしれない。
いつ失業するかもしれない。
いつ交通事故によって、死んだり、または、他人を傷つけ、殺すかもしれない。
このような悲惨を逃れる術はまったくない。
それを逃れたいならば、生まれてこなかったほうがよかった。
人間は、生まれてきた以上、失敗と悲惨を受け入れる覚悟がなければならない。
人為的にそれらのものを避けたいならば、偶像にお願いすることである。我々の全人格の徹底支配と代償に。
自由を求めてアメリカにやってきた最初の人々のほとんどは着いてすぐに、あまりの過酷な生活に死んでしまった。
自由人として生きるにしても、奴隷として生きるにしても、人生には必ず代償が伴う。
どちらを選択するのか。
自由の代償としての失敗か、それとも、奴隷の代償としての完全支配か。

 

 

02/12/31

 

 

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