サタン製造工場

 

 友人の勤めていた女子高では、スポーツが盛んであった。

 全国レベルのクラブが沢山ある学校である。

 そのためか、生徒は、先生よりも先輩のほうを重んずる傾向があると聞いた。

 なぜ先生がなめられて、先輩が一目置かれるのだろうか。

 クラブのほうが罰則が厳しいからである。

 その厳しさが伝統となっていて、全員がその厳しさを受け入れるようになっている。社会がその厳しさに慣れている。

 そして、その厳しさゆえに、実績があがれば、ますます先輩の権威は高まる。そうして、その社会には確固とした秩序が生まれる。

 体育会系クラブの秩序をすべて肯定するわけではないが、秩序の維持・「違反と罰則」の問題を考える一例として参考にできる。

 さて、学校において、教師と生徒の間の学力の差は歴然としている。クラブの先輩と後輩の差とは比べ物にならない。3年で先輩に追いつける程度の技術と、受験時代、大学4年間、教員採用試験、その後経験で身につけた知識ということを考えると、教師と生徒のレベルの差のほうが格段に大きい。

 それにもかかわらず、生徒が先生を尊敬しないのはなぜか。

 尊敬するように秩序ができていないからである。

 じゃあ、どうして秩序ができなかったのか。

 先生がなめられているのを見て、校長や管理者側が何もしなかったからである。

 もちろん、教師が勉強不足であったり、職務怠慢であるとか先生の側にも問題があることはあるかもしれない。しかし、これは世の常である(もちろん、最近の教師は、援助交際をしてそれを学校の備品のビデオにとってインターネットで売っていたというトンデモナイ奴がいるから、以前とはかなり違うが…)

 管理者の一つの大きな責務は、学校の秩序の維持である。

 教師が暴力を振るわれているという事実があれば、暴力をふるった生徒に厳罰を下さねばならない。そのような事例が一つ起こって、しかも甘い対応をすれば、次々と教師が殴られるということになる。

 クラブの秩序を見てほしい。そして、そのような荒れた学校を卒業した生徒が会社においてきちんと仕事をしている姿を見てほしい。

 つまり、彼らは本当はきちんと秩序を守れる。秩序を守ることができるのは、罰が怖いからである。クラブにおいて社会において、刑罰は容赦無く下る。仕事をしない社員はクビになる。

 もし学校が社会人を養成する場所であるならば、個人の行動の責任を個人に厳しく取らせなければならない。これは、ある意味において冷たいという印象を持たれるかもしれない。しかし、自由の代償は、冷たさなのだ。人間の冷たさに耐えられない人は自由を求めてはならない。

 温かい社会を求めるならば、規則を守ることである。規則を守る人に、社会は温かくしなければならない。しかし、規則を守らない人間にまで社会は温かくしてはならない。

 どの人間にも無差別に温かさを与える社会は、自殺しようとしている社会である。

 聖書律法の原則は、「遵法者に保護と激励を、違法者に刑罰を。」である。

 今日の社会は、温かさとか愛とかの意味をはきちがえている。

 「無条件の愛」とは、憎しみである。

 相手が何をしても裁かず、赦し、保護を加えるならば、相手はサタンになる。暴力を振るう息子や娘や生徒を赦し、保護を加えるならば、相手はどの社会においてもやっていくことのできない、手のつけられない無法者になる。

 「無条件の愛」を行使する家庭は、子供を憎む家庭であり、生徒を無条件に赦す学校は、生徒を憎む学校である。

今日の家庭や学校は、サタン製造工場になりつつある。

 

 

 



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