神の真理への頑固について

 

 世に頑固な人、あまのじゃくは無数にいる。

 自我が強いということは、必ずしも悪い性質とは言えない。

 真理を受け入れて、それを守るということにおいて我が強いということは必要である。

 簡単に真理を捨てて、偽りを受け入れていては節操のない人と呼ばれる。

 しかし、明らかに神の真理だと分かることがらについて、それを受け入れず、それを受け入れるように説得する人に対して我を張ることは危険である。

 人間の言葉に対してノーと言うことと、神の言葉にノーと言うこととはまったく次元の違う問題なのだ。

 神の証言に対して、ノーと言う人は、必ず裁きにあう。

 頑固に神の真理を拒絶する人間には、偽りの霊が送られる。

 彼または彼女は、次第にとんでもないことを言い出すようになる。

 ある牧師は、常々「私の目の黒いうちに日本をキリストによってひっくり返してみせる。」と豪語していた。しかし、彼は再建主義を主張するわたしを拒絶し、わたしが「日本は民族としてキリストを信じるようになる。」と言うと、「そんなこと、不可能なんですよ。」と吐き捨てるように言った。

 無茶苦茶である。真理に逆らうと、常日頃言っていたこととまったく矛盾することを平気で言うようになる。

 もしわたしが、人間の意見を言っているならば、それほど狂うことはなかったであろう。しかし、彼は人間の言葉ではなく、神の言葉を拒絶した。

 イエスは、「あらゆる国民を弟子としなさい。」と言われた。この命令に対して、「そんなこと不可能なんですよ。」と言う人は、荒野において、「行ってカナンを征服しなさい。」と命じた神に対して「そんなこと不可能なんですよ。」と言って死に絶えた人と同じ運命をたどる。

 人は、誰に逆らっているのか、見極めなければならない。単なる人間に逆らっているのか、それともその人間の背後におられる神に逆らっているのか。

 頑固に神に逆らう人には、サタンが送られる。

 サタンに支配されると、人は、無茶苦茶なことを言い出す。なぜならば、サタンは偽りの父だから。サタンは、神が言うことと逆のことを言う以外に選択ができない。それゆえ、サタンに支配された人も、神が言われることと逆のことしか言えなくなる。

神の言葉にことごとく逆らっている自分に気づいたら、その人は、もうすでに裁きの中に入っていることを自覚すべきである。

 

 

 



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