ターゲットを絞れ

 

何かの主張が市民権を得るならば、まず、知識階層の間にそれを浸透させなければならない。なぜならば、非知識階層の人々は、知識階層から影響を受けるからだ。

非知識階層の人々は、常日頃から「思想」について考える習慣があれば別であるが、そうではなく、普通の場合、彼らの関心事は、「非思想」である。

非思想について考えている人々に対して、思想を伝えても反発されるだけである。彼らは、それを正当に評価できない。彼らは保守的であり、知識階層の人々において常識とならなければそれらを容易に受け取ることができない。

いくらこちらが何かを述べても、彼らは考え方を変えることができない。彼が考え方を変えるとすれば、「東大の教授が○○と言っている」というような場合である。

なぜならば、思想について常日頃から考えていなければ、どこまでがすでに確立された学説であり、どこからが新しい学説であるか区別ができないからだ。しかし、学者は確立された学説に基づいて新しい学説についていつも考えている。だから、学者にとって常識であっても、一般の人々にはそれは非常識なのだ。名もなく権威もない人間が何を言っても、これらの人々からすれば、すべてが非常識に思えてくる。すでに確立された議論であっても、彼らにとっては「権威のない人が言っているから、非常識だろう」と考えてしまう。

例えば、「進化論は倫理を破壊する」という私が常日頃行っている主張も、思想史をやった人ならば、進化論など存在論に関わるテーマが不可避的に倫理も扱うことになることを知っている。なぜならば、世界観は、内部において一貫しているからだ。世界観の中で存在論だけが遊離して一人歩きすることは不可能である。存在論が変われば、倫理も影響を受けざるを得ない。

ここらへんは、いわば思想を扱っている人々からすれば、常識である。しかし、一般の人々から見れば、進化論と倫理とが何故関係するかわからない。それゆえ、すでにこのベーシックな部分においてつまづいてしまう。

だから、ある意味において、我々は、ターゲットを絞らなければならないのだ。万人にわかりやすい本を書く必要はない。万人にわかりやすいことばかり言っていれば問題の核心に迫ることはできない。

ゲイリー・ノースやラッシュドゥーニーの本は、知識人向けに書かれている。本物の専門家に向けて書かれているわけではないが、ある程度の教養を持つ人々に向けて書かれている。だから、一般のクリスチャンから見れば、少々難しいかもしれない。

しかし、彼らの本を読んだ人々が、次々と一般向けにわかりやすい本を書けば、彼らの思想は一般に浸透していく。そして、ある一定の期間が過ぎた後に、それらは常識となるのだ。

パラダイムの転換は、それほど難しいことではない。知識層が変わればよいからだ。最初から、一般の人々に受けるものなど書いても、本当の意味においてパラダイムを変えることはできない(そもそも、一般の人々は、この世界の様々な仕事に従事して生産活動をしており、思想についてまで考える余裕はないだろう。それに、彼らはディベートの訓練ができていないから、議論することができないので、どうしても、このような根源的な思想的内容の事柄について判断ができない。)

我々は、ターゲットを絞る必要があるのだ。

現在、世界が直面している課題は、ヒューマニズム内部における小さなパラダイムの変化ではなく、ヒューマニズムそのものの存続を脅かすような大きな変化である。

だから、現在、学問の世界では、様々な分野において、「哲学的な部分からの再考」が叫ばれているのだ。単に、その専門分野における小さな方向転換ではなく、「そもそも、ヒューマニズムの哲学的土台は正しかったのか」という根源的な所から掘り起こして考える必要が感じられている。

我々の扱っている事柄は、「分かる人には分かる」ような内容のものだ。しかし、それらは、将来において、非常に重要な意味を持っている。つまり、いずれ社会全体を巻き込むような性質のものなのだ。今、我々が蓄積している富が評価され、それらが使われるのは、30年後かもしれないし、100年後かもしれない。しかし、それらが主流派を形成することは、神の予定によって確実なのだ。

 

 

02/02/01

 

 

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