i・MODE 

 

聖書は証言書である

 

>「聖書において引用されている引用文には、『書き手』の『考え』

>や『神学』が反映されていることが多」いということは、聖書の

>記述は相対的存在者である「書き手」の主観ということになりま

>す。相対的存在者の主観と絶対者である神の「啓示」がどのよう

>に一致するのでしょうか?また、絶対者の「啓示」であるからこ

>そ聖書は「正確無比」でなければならないのではないでしょうか?

>だからこそ僕は聖典の「正確さ」にこだわるのでありますが。

 

(1) 聖書は証言書であって、事実記録書ではない。

 神は、御自身で直接、人間に啓示することがおできになりますが、あえてそういうことはなさりません。

 「宣教の愚かさによって救うことは神の御心である。」とあるとおりです。

 イエスは、使徒をイエスの御業の目撃者、証人としてお立てになり、「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れる者である。」といわれました。

 つまり、イエスは、「わたしは、誰かの前に幻となって現われお告げをするなどといった、直接啓示は行わないのだ。わたしは、言葉をあなたがたに託す。だから、あなたがたの証言は、わたしのお墨付きであり、それゆえ、それを受け入れる者は、わたしを受け入れる者なのだ。」と述べておられるのです。

 イエスは、相対者なる人間の証言を通して、御自身を明らかにされることをよしとされたのですから、わたしたちが、「相対者の証言ではあてにならない。」と言うことはできないのです。

 神は、相対的存在者である人間の有限性をも容認されて、あえてこの有限者の証言だけで御心を伝えようとされたのです。

 わたしたちが、裁判において証言台に立つ人が、コンピュータ的正確さや客観性をもって証言することを期待しないのと同じように、証人は、人格を持ち、人間としての限界をもつものです。彼の証言には主観が入っています。

 神は、あえて、この主観を御自身の啓示とされたのです。

 同じ奇跡の物語でも、マタイにおいては「イエスのメシア性の証言」として用いられ、マルコにおいては「イエスの神性の証言」として用いられることがあります。

 それは、マタイがユダヤ人に対する証言を任務とし、マルコがローマの異邦人への証しを任務としていたことから、強調点がそれぞれの福音書記者によって違うのです。

 人間の目から見れば、一つの奇跡物語をそのような主観によって利用してよいのだろうか、と思えますが、神は、「わたしはこの人々を証人として任命したのだ。彼らの証しは真実である。」と述べておられるのですから、私たちはそれでよしとしなければならないのです。

 かえって、このようにマタイやマルコやルカやヨハネの強調点の置き方が異なっていることによって、イエスが様々な面から映しだされ、立体的な姿が得られているのです。

  聖書は、証言書であって、事実記録書ではありません。

 

(2) 聖書は、霊感によって書かれている。

 さて、人間の主観をすすんで利用されたということを聞くと、じゃあ、我々は、そのような相対者の証言の細部を真に受けて文字通り信じることができるのだろうか、という疑問が起こってくるのですが、聖書は、

 「聖書はすべて神の霊感によるものであ」ると証言しています。

 つまり、聖書を記述したのは人間が行ったのですが、その人間の精神活動には、聖霊の導きが完全にあったといわれているのです。

 それは、けっして自動書記のように、記者が恍惚状態やロボット状態になって記述したというのではなく、聖書記者の喜怒哀楽の感情、その人間性全般に神の霊が働きかけて、特別な守りと導きが与えられたということなのです。

それゆえ、一言一句についてすべて神の聖霊が、それを選択するように導かれたので、私たちは、一言一句を厳密に聖霊の言葉であると信じ、それを研究することができるのです。

 

 

 



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