有神進化論

 

> この問題を考える上でもっとも重要な出発点は創造者なる神様の御性質のうちの

> 次の2点であると思います。

> (1)神様は人類と自然の歴史を大切にされる。

> (2)神様は一旦設定された「法」−歴史の中では律法と自然法、自然界におい

> ては自然法則−にたいしてどこまでも誠実であられる。

> もちろん、創造者なる神様ですから、法を改変したり、自然法則を破ったりする

> 能力と自由を完全にもっておられることは当然ですが、あえてそうなさらないと

> ころに、聖書に証言された神様のすばらしさがあると思います。

> 奇蹟はどうなるのだ、という問いが起きますが、奇蹟は自然の法則を我々がまだ

> 知らない方法で集約し組み合わせることによって実現する現象であると考えま

> す。

> キリストによる贖罪の御業も時間を無視し、超歴史的に行われたのではなく、イ

> スラエルの歴史を尊び、歴史的経過の中で最善の時を選ばれた結果として、20

> 00年前のエルサレムにおけるイエスの十字架と復活という形で遂行されたのだ

> と理解します。

 

そうですね。イエスが登場するのは、超歴史的ではなく、時間の世界の中にある意味で「自然に」でした。

だから、一見すると、イエスはただの人間だったのではないかと疑われてしまうことにもなってしまうわけですが。

「もちろん、創造者なる神様ですから、法を改変したり、自然法則を破ったりする能力と自由を完全にもっておられることは当然ですが、あえてそうなさらないところに、聖書に証言された神様のすばらしさがあると思います。」

これはたしかにそうだと思います。

しかし、聖書には、「因果律」とか「科学性」「歴史性」を重視している面と、それを超越している面とがあります。

一方では、イエスは、大工のせがれとして、人間の母親から生まれ、普通に勉強して、成長したわけであって、他の宗教のように、「○○先生は空中を浮遊され、水中でも30分潜っていられるのです」とか、「生まれてすぐに歩いて天上天下唯我独尊と言われた」いうようなことは記していない。

これは、聖書の神が合理性、歴史性を尊重しているからです。

しかし、同時に、イエスが生まれた時に、御使いが羊飼いのところに現れたとか、東方の博士の前に星が現われて、それが先導してイエスのもとに連れていった、という記事もあります。

聖書は、神を、「合理的である」と同時に、「非合理的でもある」として描いているのではないでしょうか。

聖書には、神が、自然法則を超越したことを行われたことが無数に記されています。紅海に風をふきつけてまっぷたつに割って乾いたところを出して、イスラエルの民を渡らせたとか、日時計の針を戻したとか、一日太陽が沈まないようにしたとか、水をぶどう酒に変えたとか、空中に指が出てきて、壁に文字を書いたとか、ロバが口をきいたとか、…

 

> 「何十億年もの長い歴史をかけて神が創造された」という言葉の中にはイスラエ

>ルの歴史も、イエスの十字架、教会の歴史も全部その中に込められたことばとし

> て理解される必要があります。歴史の重みは、神が歴史の中で創造の御業を次々

> 行っておられるからこそ尊いのでありまして、宇宙の創造を歴史的経過を無視し

> て創造の始めに一瞬に行われた(つまり6日創造説)のであれば、人類の救済

> も、超歴史的に、時間の外側で行われたなら手っ取り早くすんだことでしょう。

 

 創造の御業は一瞬に(6日間)行われ、創造は完成したと聖書は証言しています。

 「このようにして、天地とそれに満ちるすべてのものは<完成した>。そして、七日目に、神は行われた御業を<終了し>、七日目に行われたすべての御業から休まれた。」(創世記21-2

 そして、イエスの体がマリアの胎内において創造されたことなどいくつかの例を除いて、聖書は、創造の御業が継続して行われたとは記していません。

 聖書は、創造は一回限りであり、その後は摂理の御業が始まったと記しています。

 そして、神はその創造された御業を人間の手に委ねられたのです。

 もし、神がやろうと思えば、この地球に一瞬のうちに高度な文明を最初から作って、愛と秩序の世界を完成してもよかったのですが、神はその働きを人間の労働をとおして行おうとされたのです。

 だから、非常に長い時間がかかって、歴史の中で徐々に御業は進展しているのです。

 神は、一言ですべてを行うことが可能です。「光よあれ、と言われた。すると、光があった。」

 しかし、人間は、労働を通してでなければ、事を実現できません。「お金よ、目の前に現われよ。」と命じても、現われません。それは、人間には許されていない権能=「命令による実現accomplishment by fiat」なのです。人間に与えられている権能とは、「労働による実現accomplishment by labor」です。だから、毎日コツコツと努力する以外に事を実現する方法はありません(それゆえ、マルクシズムの中央銀行制度の、金銀など価値の裏打ちのない紙幣を勝手に発行する権能は、神の真似事であり、呪いを招く行為なのです)。

 

 神と人間との最も大きな違いは、この「権能」の種類の違いにあります。

 聖書は、神が事を行われる方法と、人間のそれとが決定的に異なっていると述べています。

 

 もし、神も、人間と同じように、「労働による実現」しか権能がなければ、当然、神は瞬間創造はありえないということになり、創造論は否定され、有神進化論を信じる以外になくなります。

 しかし、くどいようですが、聖書は、けっして神は「労働による実現」しか権能がないとは証言していません。

 水を一瞬にしてぶどう酒に変えるとか、一瞬にして病気を治すとか、死人を復活させるとか、ヨルダン川をせき止めるとか・・・。

 有神進化論を信じる以外になければ、「聖書の中の奇跡は、奇跡ではなかった。それは、通常の自然法則の一種である」としか言えなくなります。そして、神の直接介入による自然法則を超越した御業は世界において起こらないと主張する以外になくなりませんでしょうか。

 それは、あまりにも無理があります。そのような奇跡観を聖書から論証することは、あまりにも困難です。

 

 明らかに、聖書は、イエスは5つのパンと2匹の魚を分けて、1万人もの人々の腹を満たし、さらに余って12の籠にいっぱいになったと記しているのです。つまり、イエスは、創造者として、パンと魚を次々と増やしておられたのです。

 神の場合、意志と命令さえあれば、それは必ず実現するのです。

 これこそ、イエスが神であることのしるしです。

 

> 「神は、時間の創造者ですから、時間に縛られることはありません。」と書かれ

> ましたが、これは真理の一面であり、もう一つの面である救済の歴史(その中に

> はポストミレetcも含まれます)の重さを十全に受け止めないと、神が時間的存

> 在となられた御子の受肉の真理が軽くなり、仮現説やグノーシスに逆戻りするこ

> とになりかねません。「神は時間に縛られる被造物である」というのはご指摘の

> とおり誤りですが、「神は時間と歴史をどこまでも重く受け止められる創造者で

> ある」というのが聖書の真理であると考えます。

 

 これはその通りです。

 ただし、すでに述べたように、神は、日常を重んじ、歴史を重んじられる方であると同時に、非日常的であり、歴史を超越される方でもあります。

 創造の御業は、この非日常にあると聖書がはっきりと証言しているのですから、無理に日常の領域に入れることはできません。

 もし、できるならば、他の聖書信仰のクリスチャンが納得できるように、それを聖書から論証しなければならないのです。

 しかし、聖書からの論証ができず、なおかつそれを信じつづけるならば、結果として、聖書よりも人知を重んじることになり、そのキリスト教とは、啓示宗教ではなく、自然宗教になります。

 もちろん、自然宗教は、(ギリシヤ思想の二元論パラダイムによってキリスト教を解釈しようとした)グノーシス、仮現説と同様、啓示主義ではないので、異端です。

 

 

> 「何十億年もの長い歴史をかけて神が創造された」という言葉には、当然「神は

> 試行錯誤を繰り返した」という意味が 含まれてしまう、とお書きになっておら

> れるところで私はハットさせられました。

> でたらめな偶然に頼っていたのでは、150億年という宇宙の年齢をかけても、

> 小さな分子しか生成できないことは単純な確率計算で明らかなとおりです。

> それも、ずっと地球環境が現在と同程度に生命に都合のよい状態に保たれ続けた

> と仮定しての話でありまして、激変してきた地球の歴史を考えますと、偶然によ

> る試行錯誤では生命は誕生も進化もできなかったに違いありません。

> 激変する地球環境に対応できるよう、それぞれの時に最善の選択が行われ、時間

> をかけ、歴史的過程を踏んで、進化のプロセスが進められてきたと考えるのが最

> も合理的であります。つまり、人間の現在の知識では偶然としか言えないプロセ

> スの中にも、神の知恵と支配がおよんでいると考えるのです。物質的にも、エネ

> ルギー的にも、何ら科学法則に反することなく、情報の流入が自然を超えたとこ

> ろから行われ、最適化された進化のプロセスが遂行されてきたと私は考えます。

> 自然の歴史の中で、決定的な分岐点が要所要所に存在し、その時に「時満ちて」

> 情報の流入がなされ、それによって最善の分岐が行われてきた、それはまさしく

> 創造者のみなし得る創造の御業でありまして、自然自体にも、人間にもそのよう

> な創造の力はありません。

> 科学的認識がどんなに発達しましても、自然の根底に偶然が存在する限り、信仰

> 者は科学をおそれる必要はありません。

> 意見は大きく隔たっていますが、奥山氏のような話にもならない問答ではなく、

 

 たとえ進化があったとしても、その進化の過程というものは奇跡の連続です。

 だから、そこに神の直接介入があったと信じざるをえないのですが、それならば、神はなぜ、そのような直接介入を一発でやらなかったのか、という疑問が生じます。

 例えば、化学進化から、DNAの形成、細胞の発達。多細胞生物の誕生、魚類、陸上動物、哺乳類、人間という過程を得るにしても、とてつもない奇跡の連続です。

 じゃあ、神は、こういった段階を踏まなければならなかった理由は何か?という問題が起きます。

 神は、全能ではないのか?

 奇跡を小出しにすることはできるが、一挙に力を発揮して、人間まで到達させられなかったのか?

 という疑問が起きます。

 聖書が6日間で創造されたと述べているのは、あくまでも、人間の労働の模範となるためでした。

 何百万種類の動植物を数日で作ることができれば、なぜ一日でできないのか。と問われるならば、聖書信仰の人々は、「もちろん、神は、一日で作ることも可能です。

しかし、人間が神にならって労働するようにとの模範を示すためだったのです」と答えます。

「しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。…それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。…」(exod:20:10-11

 あくまでも、この宇宙は人間のために創造されたのですから、人間の前に何十億年もの時間はまったくの無駄です。もし、神の力が有限であり、それだけの試行錯誤が必要であったら仕方がないですが、神は全能なのです。そうならば、どうして、そのような途方も無く無駄な時間が存在する必要があるのでしょうか。

 しかも、アダムとエバの前に類人猿とかがいたというならば、人間の原罪の教理はどうなってしまうのでしょうか。

 進化論と聖書とを調和させることはできません。そして、進化論を部分的にでも受け入れるならば、原罪と贖罪というキリスト教の根幹に関わる重大な教義が崩壊することになるのです。

 私たちにとって、「聖書を神の御言葉として受け取る」ことは選択ではなく命令です。

 まず「聖書を神の御言葉として受け取る」ことから思索を出発させなければならないのです。

 もし、現代の科学が聖書と矛盾しているならば、科学を無視することです。

 どんなに人から馬鹿にされても、仕方がないでしょう。

 「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。 」(1cor: 1:20-21

 

 キリスト教は、創世記から黙示録まで、互いに密接に関連しあった壮大な有機的体系です。だから、創造において、原罪において狂いがあれば、全体が歪んでしまうのです。部分的にも異なる教えを受け入れるならば、その人のキリスト教は崩壊してしまうでしょう。

 聖書は、キリスト教において、常に生命線であり、絶対に譲ってはならないので

す。

 

01/06/27

 

 

 



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