単純の神学 

 

 

R・J・ラッシュドゥーニー

 ロ−マ帝国はなぜ滅亡したのか。その基本的な原因の一つは、ロ−マ人が単純な生活に憧れたためである、とウィリアム・キャロル・バークは述べた。ロ−マ人は「小規模独立自営農民の時代、黒パン、土器、そして単純な習慣しかなかった古代ロ−マ時代に憧れていた。そうすることによって、彼等は単純さを強さと誤解し、人は他者を必要とせずとも生きて行けるかのように考えていた。」1  彼等が呼び戻したかったのは、過去の時代の習慣であって、美徳ではなかった。今日においても、単純さに対する同様な憧れは非常に強いので、このテーマについてよく理解することは重要である。

 主は、救いについて、「人にはできないが、神にはすべてのことが可能である。」(マタイ19:26)と言われた。人は自分自身を救うことはできないが、神には救いについてのみならず、すべての問題についてあらゆることが可能である。いかなるものも神の永遠の教えと御意志から離れて存在しえないので、神にとっては解決不可能な問題など一つもない。神が自ら宣言されたように、「主にとって難しいことがあるだろうか。」(創世18:14)人間にとって問題は存在する。それらは、堕落と、神と神の掟に対する反逆の結果である。しかし、たとえ堕落がなかったとしても、人間には、(罪とは無縁ではあっても)様々な問題はあったことだろう。もし、人間が、自分がそうであると主張するように神であるならば、彼にはいかなる問題も存在しないはずである。事実、ヒューマニズムの要求は、人がこの時間の世界においてすべての問題を解決し、貧困、病気、緊張、犯罪、そして死そのものさえ取り除くことである。このため、人は神になろうとし、彼に対する聖書の神の要求を永遠に投げ捨ててしまう。

神にとってはいかなる問題も存在しない。なぜならば、すべてのことは神にとって単純であり、その統治においてはいかなるライバルも存在せず、御心によらずに起こることはひとつもなく、神が創造しなければ何一つ存在せず、そのためその御心や御業を止める影や雲はひとつとして存在しないからである。まことの生ける神について次のように言われている。

 

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、 すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13)
 

ヤコブ1章17節では、神について、彼には、「変化も、回転の影もない」と言われている。人間は環境に左右されるし、自分自身の弱さに影響され、感情も変わりやすい。しかし神にとってはそのご性質に変化とか受ける影響とはない。万物は神にとって単純であり、それは神の御手の業なのだ。  

 人間がよりあからさまに、又より自覚的に神になろうとすればするほど、彼等はますますはっきりと、自分たちは全能であり、その知恵によって万物のあらゆる領域を支配することができるのだと主張するようになるであろう。社会主義の指導者たちは、大衆にとって問題はあまりにも複雑であるが、自分たちにとってはまったく単純であると、感じている。彼等の必要としているのは、ただ、すべての人々を救う力を完全に持つことだけである。私は、学術会議の場である著名な政治家が、熱情を込めて次のように発言したのをまざまざと思い出す。もし我々が「責任ある」専門家を信頼し、彼等の自由な活動を保証すれば、すべての社会問題はいとも簡単に解決することができるのだ、と。結局、彼はこう言っていたのだ。我々を神にしてくれ。そうすれば我々はすべてのものをあなたたちに与えよう。そして、我々に不可能なことはひとつもなくなるであろう、と。

 この様に、単純を求めることは、神になることを求めることである。単純な生活への憧れは、人間にとっては不可能な自己充足への渇望である。「古き良き日」というのは神話である。だれ一人として、一人では生きて行くことはできないのであり、それぞれがあるときは屠殺人となり、あるときは農夫、靴屋、コート造り職人、道具屋などにいちいちなっていたら大変なことになろう。ある人は、様々な才能を持っており、その才能を生かすことは楽しいことである。しかし、自己充足的な「自然の」生活に戻ろうというヒッピーの試みは、常に悲惨な結果に終わっている。人間は互いを必要とする。我々の種々多様な召命はそれぞれ互いに補い合って充足をもたらす。労働の専門化と分化は進歩のしるしである。我々がそれぞれ自分の仕事をし、我々の召命を自由に果たすことによって、我々は様々な雑用から解放される。我々の多くが憧れたり、もしくは現在享受している「良い生活」を特徴付ける物を所有することができるのは、我々がそれぞれ専門を持っているからに他ならない。多くの働き盛りの人々やリタイアした人々が花や野菜を育てたり、動物を飼ったりすることができるのは、複雑な社会の賜物である。原始的な社会では、生き残るための戦いに明け暮れるだけで、それ以上の様々な活動や興味深い事柄のために費やす時間を持たない。ある意味で、世の中が複雑になればなるほど、我々の生活はより単純に、より快適になる。

 この様に、より良き生活や進歩をもたらすために必要な前提条件とは、問題から解放された生活は神にのみ存し、我々には常に問題は存在すること、そしてより良い生活は神の法と御言葉にしたがってこの問題と取り組むことによって得られるのだということを、知ることである。我々は、単純さに憧れるのではなく、むしろ信仰による神の御言葉への服従によって人間の活動を分化し、専門化させるよう努めなければならない。

 現代の複雑な技術文明のお陰で、我々の生活は、物質的な面から見て、より単純になってきている。洗濯機、電気、セントラルヒーティング、自動車、列車、飛行機、そのほか技術革新は、我々により多くの自由をもたらしてきた。この複雑さを否定することは、我々の生活を複雑にすることであって単純にすることではない。それは、生活条件を維持するために、我々自身や使用人がいまより一層苦労を強いられる不便な生活へ逆戻りすることを意味する。

 心の世界においても同じ事が言える。もし人が、いかなる障害も問題も持たない全能なる神という「単純な解決」を投げ捨て、そのお方の助けを拒むならば、人は自ら「単純な解決」となり、自分たちだけの力で問題を処理するようになる。しかし、人間はけっして神にはなれず、自力で問題を解決することができないのであるから、その結果、強制的支配によってみせかけの解決に甘んじるしかなくなる。人間が、神とそのみ言葉による正しい方法によって問題を扱うことを止め、自己完結的世界の中で生きるとき、その結末は専制かもしくは死なのだ。

 生活の複雑さが理解され、評価され、人間活動の前提として認められて初めて、人はこの極めて複雑で広大な原因と結果の世界の中で、単純さを享受できる。彼は、その時、みせかけの神としてではなく、神の下における真正な人間として活動する。

モーセが申命記29章29節において念頭においていたのはこのことであった。

 

隠されていることは、私たちの神、主のものだ。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみ教えのすべての言葉を行うためである。
 

ライトによれば、神に属するといわれるこの「隠されていること」は未来と関係している。2  カイルとデリッチは次のように言う。

 

現わされたことは、約束と脅しとを伴なった律法を含んでいる。その結果、隠されたこととは、神が律法の中で啓示された御助言と御心を実行し、人々の背信行為にも拘らず救いの御業を完成させるための、やり方を指す。3
 

 フォン・ラッドはこのことを、「人間の知恵の限界」の言明、すなわち、本文の意味のよりはっきりとした理解、として解釈している。本文はその意味において次のように読まれるべきである。「律法において表明されたヤーウェの御意は明らかである。それはいつでもイスラエルに属しているのであり、それに関してイスラエルは責任を負っている。そのほかのことすべては神の御手の中に存する。」4    

フォン・ラッドは本文の意味と、その契約的性格を明らかにしている。

 

1.モーセは「現わされたものは我々と我々の子孫とに永遠に属する」と言った。不信仰者は神の律法を否定する。それは彼等にとっては啓示ではなくむしろつまづきである。彼等は秘儀をマスターし、未来を定め、自分達の信念や考えの通りに未来を変えようとしている。単純の領域と、問題を超越した生活が神に取って代っている。人の夢は今や完全に主となり、創造者となった。そしてこの神性は人間と未来の人間に移行したが、彼はまだ神になる途上の人間なのだ。契約的人間のみが神の法と御言葉を問題解決の手段としてみることができる。それは彼の生活に意味を与え、次のように言うために、彼の生活を単純化する啓示なのだ。

 あなたがたは、あたながたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。右にも左にもそれてはならない。あなた方の神、主が命じられたすべての 道を歩まなければならない。あなたがたが生き、幸せになり、あなた方が 所有する地で、長く生きるためである。(申命5:32−33)

ただ強く、雄々しくあって、私のしもべモーセがあなたに命じたすべての 律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたがいく所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の 書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちに記されているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。(ヨシュア1:7−8)

この様に、神の律法はその契約の民に対して神の祝福と、繁栄の恵みの手段でもある。

2.モーセは、神の律法は、我々のドミニオンの領域として、我々に対して世界を開示する鍵となるのだ、ということを宣言している。しかし、そればかりではなく、神が宣言されたのだから「この律法のすべての言葉を行う」よう、我々は命じられているのだということをも宣言している。神の律法はドミニオンと繁栄への唯一の手段であるが、結果がどうであれ、神に従うことは我々の義務なのだ。悪い時代には、神に従うことは罰を伴う。それにもかかわらず、我々は次のように言われている。

 

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(伝道 12:13−14)

3.人間の知恵には限界がある。神の御思いとその御業を理解し尽くすためには我々自身が神にならねばならないであろう。宇宙は全体として合理的であるが、人間の心には理解し尽くせないところがある。なぜならば、その広大で複雑な総体は彼の知性を遥かに越えているからである。この事は、神ご自身についても同じである。我々は三位一体の深遠なる意味を計り知ることはできない。神の予定について、創造、恵み、さらに多くのことについて、その奥義を知り尽くすには我々の知恵はあまりにも卑小である。

 しかし、神が誠実なお方であるということを知っていると言う意味で、我々はこれらのことを信仰によって理解できる。神のすべての啓示の御言葉と神ご自身との間において、また、イエス・キリストにおけるご自身の啓示と、その永遠の三位一体各位及びその神秘の間において、いかなる矛盾も存在しない。そればかりか、かえって完全な調和がある。

 「隠れたことは我々の神、主に属する」と言うことは、神は神であり、我々は神の被造物であると言っていることと同じである。それは、生活の複雑さも単純さも共に神からくるのであり、理解の鍵は信仰と信仰による服従であるということを意味している。 

 

 

 

1. William Carroll Bark: Origins of the Medieval World, p.144. Garden  City, NY: Doubleday Anchor Books, (1958) 1960.

2. G. Ernest Wright, "Deuteronomy," in The Interpreter's Bible, sII, 507.

3. C. F. Keil and F. Delitzsh: Biblical Commentary on the Old Testament, vol. III, The Pentaterch, p.451. Grand Rapids, MI: Eerdmans, 1949.

4. Gerhard Von Rad: Deuteronomy, p. 181. Philadelphia, PA: The Westminster Press, 1956.

 

 

"92 THE THEOLOGY OF SIMPLICITY" R. J. Rushdoony, Law and Society, pp. 407-410. Vallecito, California: Ross House Books, 1982 の翻訳。



ツイート