なぜ宇宙や生物は進化しなければならないのか?

 

 現在、生物を始め世界そのものが進化してできた、と考えるのが普通になっているが、歴史的に見て、そのような直線的な発展史観が趨勢となったことは稀なことである。

 進化論の発展史観の大本にある古代ギリシャ思想の世界観ですら、その本質は、循環史観である。古代エジプト、バビロニア、仏教、ヒンズー教などのように、歴史は循環している、と考えるほうが普通である。スタンリー・ヤキが述べたように、循環史観に拘らなかったのは、ユダヤ教、キリスト教だけである。

 ヘーゲルの発展史観も、キリスト教の世界解釈から生まれたものであり、いわば、千年王国論の世俗化と言える。

 ヘーゲルの発展史観に潜む宗教性、思弁性、ロマンチシズムは、実証主義的思想から攻撃を受けた。しかし、その歴史発展論は、ダーウィン進化論やマルクス主義に形を変えて生き残った。

 

 それ以来、近現代の人々は、「歴史は発展する」との妄想に取り付かれ、これ以外の考え方を受け入れることができなくなってしまった。

 

 そもそも、なぜ宇宙は進化しなければ、ならないのか?

 なぜ生物は進化しなければ、ならないのか?

 

 「いくつかの生物がいた。環境適者だけが生き残った。」と言うならば、どうして、それらが生き残りたいと思ったのかを説明しなければならないのだ。

 

 ここに、進化論の宗教性が明らかになる。

 進化論の基本には、「世界は生存発展の方向に向う欲望を持っている」

という証明されていない思想が存在する。

 

 生物が偶然にできたのであれば、我々が日々目にする偶然の産物と同じように、生存とか秩序とか発展に向って前進するなんてことと無関係であるはずではないか?

 

 現代人の頭には、歴史は発展するものだ、というアイデアがすり込まれている。そして、それが、そもそもキリスト教の千年王国説に由来することを誰も知らない。

 

 キリスト教の千年王国説は、「発展を志向する神が創造した世界だから、歴史が発展するのは必然である。」と主張できるが、そのような神が存在せず、ただひたすら偶然だけによってものごとが推移しているならば、どうして発展の方向に向う必然性があるのだろうか。

 

進化論は、歴史発展説というパラダイムの上にのみ成り立つ考えであり、それは、近代思想の産物に他ならない。その証拠に、生物が発展したという「証拠」が一つも見つからない。「証拠」と言われるものは、どれも、進化論のパラダイムによって解釈、調理されたものでしかない。胃下垂は直立歩行にまだ慣れないために起こる病気である、という類のトンデモ証拠しか提示できないのは、進化論が、単なる解釈のレベル、つまり、形而上学でしかなく、彼らが主張する実証科学ではないことの証左なのだ。

 

 

 

 



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