ノンクリスチャンに聖餐を授けてはならない

 

聖餐は契約の更新の儀式である。
契約はそれを守る者に祝福を与え、破る者にのろいを下す。
それゆえ、契約の儀式にも、祝福と裁きが伴う。過越の時に、エジプトに裁きが下り、イスラエルは救われた。
パウロは、「ふさわしくないままで飲み食いする者は、自分の身に裁きを招く」と言った。
エマオの旅人たちは、パンを裂いた時に自分たちと話している人がイエスだとわかった。
霊的な知識は、契約の中にいる人々に対する祝福だからである。
契約に忠実な者は、ますます知識を増し加えられるが、契約に不忠実な者は、持っている知識まで奪い取られていく。

「イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」(マタイ13・11-12)

聖餐をノンクリスチャンに与えようとするのは、聖餐を契約と結びつけて考えていないからである。聖餐は単なる愛餐会とは違うのだ。
愛餐会は、神の前で人間が主催する食事会であるが、聖餐は、神ご自身が主催して、人間をご自身との交わりに招かれる食事会なのだ。

罪を犯したアダムが神との交わりを失ったように、罪を平気で犯して悔い改めない者、神との恵みの契約の中におらず、キリストによる罪の赦しを受けていない者(ノンクリスチャン)には交わりは許されていない。

クリスチャンは、キリストという衣服を身にまとって聖餐の場に出席する。クリスチャンは、その罪を覆われて、自分があたかもキリストと同じであるかのように完全な義の姿で神の前に出る。

しかし、ノンクリスチャンは、キリストという衣服を着ていない。彼らは、自分の罪の姿そのままで神の前に出ることになる。それゆえ、彼らは、神の御前で裁かれる。神は、罪を放置したまま交わりを持つことがおできにならない。神は、交わる者に完全な聖さを要求される。犠牲の動物に一点のしみも欠陥も許されなかった神は、我々のうちに一点のしみも欠陥も許されない。それゆえ、もしキリストの衣を身に着けていないノンクリスチャンをむきだしのままで神の交わりの席に出す者は、そのノンクリスチャンに害を与える者である。

聖餐を契約と結びつけず、「契約の祝福と裁きを伴うもの」と理解しなければ、我々は、契約の裁きを受ける必要のない人々を裁きに巻き込むことになる。礼服を着ていない人を天皇の園遊会に参加させれば、その人に恥をかかせることになるだろう。これと同じように、もしノンクリスチャンを聖餐に参加させるならば、我々は、そのノンクリスチャンに、本来こうむる必要のない害をわざわざ受けさせることになるのだ。

 

 

02/10/05

 

 

 ホーム

 



ツイート