合言葉だけで勝負しよう

 

クリスチャンは、呼び出された者である。
教会は、エクレシア(つまり、「呼び出された者たち」の意味)である。
我々は、自分の救われた経緯を見ても、自分が呼び出されたということに気づくだろう。
それまで、まったく聖書やキリスト教に関心がなかったにもかかわらず、ある時、不思議な経緯で真理を知らされた。だから、本物のクリスチャンは、「救いは自分の意志ではなく、一方的な恵みである」と理解できる。

しかし、いわゆる現代の伝道方法の多くは、心理学を応用しており、「人が反感を抱かずスムーズに福音を受け入れるように」仕組まれているので、「呼び出された者」以外の者も、教会に入ることを助けている。

伝道とセールストークとはまったく違う。

セールスマンが使う手法は、人間の心理を巧みに読んで、その相手の反応を見ながら、商品を買い求めたいという気持ちにさせる。

しかし、伝道とは、「選ばれた人々にしか反応できない合言葉を述べる」ことを意味する。

永遠の昔から救いに予定されている人々は、ある特定の合言葉に反応する受容体が心に植えつけられている。その合言葉とは、「イエスは私たちの罪のために十字架につけられ、私たちを贖ってくださった」である。

イエスに属する人々は、この言葉に敏感に反応する。しかし、そうではない人々は、それに対して鈍感であり、いや、むしろ、そのような言葉は愚かに聞こえる。

「十字架の言葉は、…滅びに至る人々には愚かである。」

教会は、この合言葉によって呼び出された人々の群れである。
だから、この合言葉によらずに集まった人々については、カウントする必要はまったくない。

だから、我々は、教会の人数の多さによって、その牧師の本質を評価することはできない。

彼は、福音をまっすぐに説いているだろうか。彼のもとに集まってくる人々は、御言葉を求めているだろうか、それとも、その牧師の話術、人格、人間的愛、紳士的態度、教養、または、他のクリスチャンとの交わりを求めて集まってきているだろうか。

学歴も同じである。

今日、神学博士号はほとんど有名無実化している。
授与された人々を見れば明らかである。
学位授与機関が、「予定された人々だけに分かる合言葉」だけを評価しているならば問題はないが、しかし、そうでなければ、その授与機関がなんぼのものなのだろう。

博士号を持っているかどうかで、真の教師、専門家かどうかを判断することはできない。真の教師、専門家とは、御言葉に完全に服従し、御言葉と矛盾することをいっさい言わず、御言葉を神の方法で正しく語る教師である。

彼は、人間的な魅力で人を獲得しようとしない。人を獲得する方法はただひたすらに「合言葉」だけである。

合言葉だけを語るならば、イエスを愛する人々は集まるが、牧師を愛する人々は集まってこない。

人間的手段によって集まった人が多くいても、それは、必ずしも教会ではなく、むしろ「同好会」と呼んだほうがよい。

今日、クリスチャンと呼ばれる人々が、歴史的に教会が採用してきた基準、信条、教理、聖書的教えを拒み、それとは異なる「可能性思考」だの「卒倒」だの「預言」だのに目を奪われているのは、教会が「合言葉」によって人を集めてこなかったからである。

アメリカのF神学校は、宣教学部以外はバルト主義である。しかし、同じ経営者が経営しているならば、どうして、一学部だけがそれに汚染されていないことがあろうか。

そして、日本の教会は、この神学校の出身者を無批判で受け入れ、彼等の教えを通じて、半ヒューマニズムが教会に蔓延した。「心理学的伝道方法」が採用され、人の耳に心地よい教えが説かれた。「罪」という言葉は人を不快にするから、「弱さ」という言葉に置きかえられた。招きにおいては、「神様はあなたを愛しておられます。」が連呼され、合言葉は最後に少しだけ語られるだけになった。決心者が前に進み出やすいように、サクラが先頭をきって進み出た。

招きに従ってゾロゾロと講壇の下に集まる人々は、合言葉に反応し、超自然的回心をしたためではなく、心理学的な感動を覚えたからである。

このような人々が教会に次々と集まったために、教会は大胆に聖書の教えを語ることができなくなった。聖書講義は陰を潜め、トピックメッセージと、落語ばりの例話で説教が埋められた。信徒は、ゲラゲラ笑い、最後には泣きも入って、満足して教会の門を出て行った。もし、講解説教や、忠実な釈義によって聖書から忠実に教えが説かれようものなら、「あの先生のメッセージは固くて」という評判がたって、信徒は次々と去って行く。信徒をつなぎとめ、教会会計で赤字を出さないためには、どうしても、笑いと涙と感動を与えないといけない。

こうして、教会はディズニーランドになった。

合言葉だけで勝負しなかったために、牧師はディズニーランドの経営に奔走しなければならなくなった。神には、ミッキーマウスになってもらう以外にはなくなった。神は、愛嬌を振りまき、怒ることもせず、ただひたすらに快適を与える「アイドル」に仕立てられた。

もし「神の御怒り」など説教しようものなら、教会はからっぽになる。人々は、「ストレスを減らすために来ているのに、どうしてストレスを増すようなことを言うのですか?」と文句を言い、「○○先生のメッセージのほうが『恵まれる』」と言って、出て行く。

予定論を否定し、予定された人々だけに通じる「合言葉」で勝負しないと、教会には偽クリスチャンしか集まらなくなってしまう。今日、本当のクリスチャンは、行き場がなくて困っている。どこに行っても、『賛美』のから騒ぎだけで、本当のメッセージが聞けない。

聖霊だけが与える深い喜びと聖さと感謝が体験できる教会は数えるくらいになってしまった。

 

 

02/05/06

 

 

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