実存主義について(1)

 

<ご質問>

学生の頃、よくわからないながらも、キェルケゴールの「死に至る病」を読みました。キェルケゴールは、ニーチェと共に、実存主義の元祖とされ、一般社会からは評価が高いようですが、キェルケゴールは、どう評価されるべきでしょうか?

 

<お答え>

 近代西洋ヒューマニズム哲学には2つの大きな流れがあります。

 それは、ヒューマニズムの科学理念とヒューマニズムの人格理念です。

 科学理念は、世界を経験科学だけで理解しようとします。神とか霊とかを認めず、すべてが科学的な因果律で成り立っているとします。人格理念は、人間は科学的な因果律に支配されずに、良心の自由、意志の自由があるのだ、と信じようとします。

 例えば、目の前に財布が落ちている。動物ならば、自分が欲しいものを取るだろうが、人間は、欲望の奴隷ではなく、善悪の判断をする者であるから、それを取らない。

 ここに人間の自由があると考える。

 

 しかし、このような2つの要素は、対立し、ある時は、科学理念が勝ち、人格理念が負け、ある時は、人格理念が勝って、科学理念が負けるというように拮抗してきた。

 

 科学理念が行きすぎると、人格理念からの反動があります。この世界は科学的法則によって成立しているから、宗教なんてのは幻想だよ、と科学理念の人々の声が大きくなると、人格理念を尊ぶ人々は、「いやいや、宗教も大切だよ。世界は科学だけで割りきれるものではない。」と言う人々が多くなる。非常に大雑把ないい方をすれば、

 

 科学理念…自然主義(ホッブス)、経験論(ロック)、実証主義(ダーウィン)

 人格理念…合理主義(デカルト)、観念論(カント)、ロマン主義(ヘーゲル)、

と分けることができるでしょう。

 

 こういった行きつ戻りつの状態が、19世紀の中ごろまで続いていたのですが、ロマン主義に対する科学理念側からの反撃は、ついに横綱を出してきました。ダーウィンの進化論を筆頭とする実証主義思想は、人格理念に対して決定的な打撃を与え、彼らが立ち直れないほど打ちのめしたのです。

 

 進化論は、宗教や道徳は幻想である、ということをはっきりと人格理念に対して示した。この世界は、弱肉強食の淘汰の法則によって成立しているのであり、それまでヨーロッパが漠然とながら信じてきた「自然法」なるものは存在しないのである、と断言した。

 

 それまでは、哲学は、形而上的な世界を求め、キリスト教に代わる人造宗教を打ちたてて、「神抜きの道徳的な社会(=理想郷)」を作ろうとしていた(例えば、カント)のだが、進化論の登場によって、完璧にその希望を打ち砕かれた。

 

 「この世界には神も神の法もないのだ。ただ、世界は偶然によって推移しているのだ。」というのであるから、進化論を徹底すれば、宗教も、道徳も、へったくりもなくなるのです。「人が見ていなければ何をやってもよい。」というレベルの道徳しか存在しなくなる。これは、人格理念側から見れば、地獄の到来であり、彼らが夢見た理想郷とはほど遠い世界です。

 

 しかし、人格理念側にはもはや打つ手はありませんでした。彼らはすべて世界観を出し尽くしていたのです。

 それゆえ、進化論以降、自然法はほとんど死に体になり、法律は高等法higher lawに照らして決定されるのではなく、社会通念によって社会がその時々に作っていくものであると考えられるようになったのです。

 

 さて、このようなダーウィンなどの実証主義的な立場の人々が現われて、科学理念オンパレードになったときに、実存主義者がノーと言うようになりました。

 

 彼らは、次のように言いました。「何でも科学で割りきれて、人間のすべては科学によって解明されるならば、個性というものが死んでしまうではないか。」と。「A君とB君という2人の人がいるとしよう。科学は、彼らの体を分析していくが、最後には、『A君もB君も同じ素粒子でできていました。』という結論を出す以外にはないのだ。A君とB君がどのように違うのかが問題ではないか。」

 

 しかし、彼らは、カントのように科学が通用しない世界に逃げ込んだり、以前のロマン主義者のように「世界精神」を持ち出すようなことはしない。そのような思弁的夢物語的哲学は言わない。このような御伽噺は、実証主義によって否定されたことを実存主義者は、知っているのだ。

「私たちは、ロマン主義のような、空想の世界には帰りたくはないのです。地に足のついたことがやりたいのです。ロマン主義は、その後、実証主義によって否定されたではないですか。私たちは、実証主義の批判を受け入れるがゆえに、ロマン主義の道には帰りたくないのです。」と。

進化論が世界に入ってきて、生物が進化したという明白な事実をつきつけられた時に、人間の自由への求めはどのような形で現われるのか、それが、実存主義が示しているところです。

 

実存主義者は、「進化論や実証主義のパラダイムに完全に巻き込まれると、自分は単なる進化の一こま、原子分子素粒子の集まりでしかないということになるではないか。

それでは、個性とは一体何か。私と、あなたの違いは何か。単なる進化を推し進める(または阻害する)一要素でしかないのか。」という、「個としての自分」を問題にしました。

 

 しかし、今や、進化の事実は否定できないし、現実に即するという実証主義の科学的精神に逆らうこともできない。かといって、歴史的に否定されたカントやヘーゲルの作った「神秘の世界」に逃げ込むこともできない。

 

 実存主義者は、「科学」と「自由」の間に板ばさみになった人々でした。しかも、科学のほうが圧倒的に強い。もはや、自由(人格理念)の側は、形而上的世界、普遍的世界を主張できなくなった。そこで、彼らは、これらの形而上的世界や普遍的価値と呼ばれるものを、個人を軸として相対化したのです。

「普遍的真理?そんなの関係ないよ。自分にとって何がいいかが問題だね。」と言い出した。

現代人が、こういう発言をするのは、進化論などの実証主義によって「普遍的価値」を否定された人々が絶望のあまり、個人の体験とか快楽を軸にして世界を回そうという立場に逃げ込んだからです。つまり、「永遠」とか「普遍」とか「神」とか「信仰」などをあきらめて、間違った意味での個人主義に陥った。

 

 ニーチェは、「永遠の価値などない。歴史は、すべて、弱肉強食の中で強い者が勝ち、弱い者が滅びるという過程である。」と述べて万物を相対化しました。

 

 ディルタイは、「世界は神の法とか自然法などによって支配されているのではなく、生まれ、栄え、衰え、そして死ぬというサイクルを繰り返しているだけだ。」といった。彼の「歴史主義」は、科学理念のもつ普遍志向すらも破壊してしまった。つまり、科学は普遍的真理を発見することを目指し、ヒューマニズムの科学理念は、この世界に働く「永遠不変の法則」を発見してそれを人間王国建設のために利用することを目指したのだが、実存主義の「歴史主義」は、「万物はたえず変動し、変わらぬものなど何一つない」というヘラクリトスの箴言を現代によみがえらせたのです。

 

このようにして、実存主義において、ヒューマニズムの人格理念も、科学理念もどちらも完全に破壊されてしまったのです。つまり、すべてが相対化し、絶対なものは一つも存在しないということになってしまいました。

 

今日、私たちの周りには、相対主義が溢れています。教会にすら相対主義が入り込んでいます。

「律法を守れ」と言う牧師は追い出されます。真理の探求者は、仲間から浮いてしまい、煙たがられます。

 

 

ヒューマニズムは、実証主義の攻撃を受け、さらに、実存主義の相対主義において、完全に挫折しています。ヒューマニズムには指導原理は残されていません。

 

キェルケゴールは、実存主義と呼ぶにはあまりにもクリスチャン的な要素が強くて、完全な相対主義者ではありません。ただ、彼のキリスト教理解は、ヒューマニズムに基づくものであり、厳格な啓示主義ではないために、彼の影響を受けたバルトが、実存主義神学を作って、聖書啓示から離れてしまいました。

 

バルトが実存主義を利用して、キリスト教を救おうとしたのは、まるで、実存主義を利用してヒューマニズムの人格理念を救出しようとした世俗哲学者と似ているように思えます。

 

圧倒的な進化の証拠を見せられて、創造を否定せざるをえなくなったクリスチャンたちは、「聖書は歴史的な事実を述べた書物ではなく、それゆえ、神の言葉とは言えない。しかし、時間の世界に生きるクリスチャンが説教を通じて永遠の神と出会うときに、それは神の言葉となるのだ。」という屁理屈を述べるようになったのです。

 

どんなに不条理を主張しても、結局ヒューマニズムの行き詰まりを解決できなかった世俗実存主義と同様に、キリスト教実存主義も、結局クリスチャンを救うことはできませんでした。

 

我々は、進化や科学の証拠がもし聖書の世界観と矛盾するならば、「神を恐れるがゆえに」それを拒否しなければならないのです。それに理屈なんて必要ありません。変な理屈をつけて逃げようとするから、変なキリスト教が生まれるのです。

 

つづく

 

 

 

 



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