クリスチャンは、いつでも穏やかに?

 

 私の友人かつ、群れの仲間であるクリスチャンで、様々な悪い人々からこづき回されている人(K氏)がいる。

 自動車屋をやっているのだが、車をただで乗り逃げされたり、自分の名義でリース契約をした人が、リース料金を払わずに逃げまわっているため、自分が代わりにその代金を払わなければならないはめに陥ったり…。しまいには、その借りた人が、金を払いたくないために、「ばかやろう、このやろう」と罵詈雑言を浴びせて、支払いをごまかすのであるが、彼は復讐は罪だということで、いっさい口答えしない。

 さて、私は、こういった無抵抗を「秩序撹乱の罪」であると考える。

 彼は、その無法者の言い分を聞くことによって、自分の家族を借金地獄のどん底に落とし入れ、リース会社の担当者を免職の危機に追い込んでいる。

 こづきまわされ、悪者のいいカモになることによって、自分自身と、自分の家族を養うという義務を果たしていないのであるから、彼は無責任である。

 大切にしなければならないのは、リースしてただ乗りをしている人間なのか、それとも、合法的に生活している自分の妻、家族なのか?

 昨日、私は、「Kさん、もう限界だから、車を引き上げましょう。」と言って、一緒に、深夜にその乗り逃げ男の家の駐車場から車を引き上げてきた。

 今日になって、その無法者から彼の事務所に抗議の電話がかかってきたので、私が代わりに電話に出た。

 「富井さん、突然車を引き上げるとはどういうことなんですか?」

 「あたり前でしょう。リース代金を9ヶ月も滞納したなら、引き上げられても文句は言えないでしょう。」

 「なに言ってんだ。俺は払うって何度も言っているだろう。どういうことなんだ。今そっちに行くから待ってろ。」

 こういった脅しに出ると、K氏のように、私もおとなしく「はい。」と引き下がるだろうと思ったのだが、私は逆に怒鳴りつけた。

 「払うと言いながら9ヶ月も滞納したら払わないということと同じじゃないか。滅茶苦茶なことを言うな。」

 この後で、かなりの言い争いが続いた。

 さて、ひと悶着が終わった後で、我々は祈りの席に着いた。

 その席上で、K氏は、私の話している会話には「怒りの霊、傲慢の霊」が働いていた、と言った。

 「ちょっと、待ってくださいよ。Kさん、私は、別に自分のことで怒ったのではない。個人的には何も彼に対して恨みはない。ただ、あなたの事務所がこのままだと彼によって引っ掻き回されてつぶされてしまう、と考えたから、あのように強い態度に出たのだ。あのような無法者に理屈を言っても通用しない。こちらが強く出てかなりキツイことを言わないと、このまま付け込んできて、車を取り返しにくるかも知れないじゃないですか。」

 「いや、たしかに君の言うのは正論だ。しかし、クリスチャンはそのような怒りによって戦ってよいのだろうか。」

 「いいですか。相手がまともであれば、そのように穏やかに話しをするが、滅茶苦茶なことを言ってきて、こちらの弱みに付け込もうというような人間に弱腰ではだめなのですよ。復讐は罪ですが、けん制は罪ではない。」

 さて、クリスチャンは、常に平和な話し方をし、穏便にことを勧めるべきだというのは、一般原則ではある。しかし、場合によって、人によっては、理屈が通用しないケースがあるのであるから、そのような人間にまで礼儀正しさや穏やかな態度を貫かなければならないという規則はない。

 それでは、自国が侵略者に蹂躙され、無辜の市民が虐殺されているのを見ても、けっして銃をとって相手を殺してはならない。「侵略をやめてください。」というプラカードをかかげて説得しなければならないということになるのだろうか。

 自宅に暴漢が侵入して、自分の妻や子供が危機にさらされているときに、けっして暴力や怒りの態度に出て、抗戦してはならないのだろうか。そのような場合でもクリスチャンは無抵抗を貫かねばならないのだろうか。

 聖書は、「遵法者を守り、違法者を罰して、神的秩序を維持せよ。」と命じており、正当防衛を肯定している。

 自分の家族を守れない家長や、自国を守れない政府は、無法者を援助する秩序破壊者の友なのだ。

聖書全体から愛をバランスよく論じることなく、ただ漠然としたセンチメンタルな情緒的な「愛」だけを原理とする擬似キリスト教を忠実に実行すると、K氏のように家庭を破壊し、自分の愛する妻や子供を危機のどん底につきおとすことになる。

 

 

 



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