キリスト教は現世御利益を否定するか?

 

> キリスト教は、因果律ではなくて、予定調和説ですよ。どのひとが救われるか否

> かということは、現世に生きたなかでの善行とはおかまいなく、神が最初に定めら

> れていることです。そうしたなかで、信者が祈るという行為は「こうして神の栄光

> を讃える私は、救われる組に含まれているであろう」という証(あかし)を自分に

> 立てるためです。救われる保証はないにせよ。仏教の因果律とは違いますよ。

因果律という言葉が誤解を招いてしまったようですね。

causality という言葉を用いましょうか。現世内的causalityを(ウェーバーが問題にした)改革派(カルヴァン派)神学では、強調します。カルヴァン派は、アルミニウス派と違って、旧約聖書と新約聖書の一貫性を強調しますので、来世に対する期待だけではなく、旧約聖書の申命記に記された「律法に忠実ならば、あなたがたの作物や家畜も祝福される。あなたがたの子孫は増えて、豊かになる。」という、現世におけるcausalityを強調します。これは、彼岸志向のスコラ神学やアルミニウス神学とは対極にあります。

それから、ウェーバーの誤解点でもありますが、現世内の善行は、救いにかかわることではなく、(現世だけではなく)来世における祝福の度合いの違いになって結実すると、カルヴァン派は考えます。カルヴァン派は、救いに関しては、キリストの贖いに対する信仰だけであると考え、善行は救いには一切貢献しないと考えます(これはプロテスタントに共通します)。もちろん、ウェーバーの時代のカルヴァン派の一部やピューリタンの中に、救いの確信を得るために、善行を積むことに熱心になった人々もいたかもしれませんが、善行は来世の救いとは一切関係ないというのは、プロテスタントに共通する教義です。

>  これって、キリスト教の根本的なドグマですよね。死後地獄に落ちる、あるいは

> 天国に還るということを期待して、現世で善行をつむというモチヴェーションは、

> 結局、この世に生きているうちに「ご利益」があるか、死後「ご利益(地獄に落ち

> ないという保証もこれに含む)」があるかの違いで、いずれにしても、富井さんの

> その捉えかた自体が、ご利益宗教という発想になります。日本人に多い誤解です。

死後地獄に落ちるか、落ちないかは、善行を積むかどうかによらず、ただキリストの贖いに対する信仰による、というのがルターから始まったプロテスタントの「信仰義認」の教理です。

すでに述べましたように、ユダヤ教をはじめ、キリスト教も(「現世においても報いがある」という意味において)御利益宗教の要素はあります。

「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、<この世にあって>その幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。』」

 

>  つまり、脅迫をかざす宗教は、ネガティヴなご利益宗教というカテゴリに括って

> もいいでしょう。もちろん、本来のキリスト教のありかたは、そうではなかったは

> ずですが、富井さんのような理解が一般的になって(これは富井さんを非難してい

> るわけではなくて、そういうものを振りかざして、信者を獲得してきた教会の罪と

> いうべきものでしょう)、すっかり、ご利益宗教に堕してしまったのですよね。

脅迫をかざすのは、別に新しい教理ではありません。

死後の裁きに対する恐れを強調し、脅迫するのは、キリスト自らが行ったことです。

「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」

「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

 

>  追伸:質問です。「教会は除名する」というフレーズがしばしば見受けられます

> が、ここで言う「教会」とは「神」と同値、あるいはその権威を委託された代弁者

> という解釈をしていいのでしょうか。後者であれば、委託の手続きは如何に経られ

> たのでしょうか。靖国参拝をした故・大平元首相は、教会から除名されており、神

> から見捨てられ、ゲヘナに落ちたと、一般的に信じられているのでしょうか?

教会は、それが使徒(使徒は直接キリストから任命された証人であるとキリストは述べた)の証言書である新約聖書に従っている限りにおいて、神から権威を与えられましたね。

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

だから、教会が聖書の基準にしたがって、信者をバプテスマを経て受け入れるならば、その信者は救われ、信者を拒むならば、滅びると考えます。

>いわば、国家を支える国民たる民族意識を抽象させて自覚させる、慣習的な位置

>づけですね。つまり、国歌や国旗と同じです。そうして、そこに思いを託して、国

>のために戦い犠牲になったひとを敬うことは、キリスト教や仏教のような宗教的営

>みとは、峻別されるべきものです。憲法違反でもないでしょう。それをいえば、憲

>法に定めのある「天皇」だって憲法に違反するという、自家撞着を起こしますよ。

もし宗教的な営みと峻別できるならば、誤解を与えないように、神社などでやらないほうがよいでしょう。なぜ神社で行うことに固執するか説明がつかないでしょう。戦没者記念集会で「国のために戦い犠牲になったひとを敬う」ことは充分にできるわけですから。

 

>靖国参拝をした故・大平元首相は、教会から除名されており、神から見捨てられ、

>ゲヘナに落ちたと、一般的に信じられているのでしょうか?

一般に信じられているかどうかは知りません。

何人かの牧師からは聞いたことがありますが。

ただ、パウロが、

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。…偶像を礼拝する者…はみな、神の国を相続することができません。」とはっきり述べているので、反対するクリスチャンはいないでしょう。

 

 

2001/08/17

 

 

 



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